Nintendo DREAMを扱った学術論文について(2)気になる点と意義

Gayaline

 前回は、Nintendo Dreamの1990年代末の状況を扱った論文の内容を紹介しました。
 引き続き、この論文について見ていきたいと思います。今回は気になった点と論文から読み取れるゲーム史的な知見について。


論文について

 改めて説明すると、『國學院雑誌』の第123巻12号(2023年)に、小林真実氏による「任天堂専門誌『Nintendo DREAM』の展開とゲーム文化における意義 : 一九九〇年代後半を中心に」という論文が掲載された。  https://k-rain.repo.nii.ac.jp/records/2000201
 こちらのページで中身も読めるようになる予定。前回はその概要と感想を述べたが、続いてさらに別の視点からこの論文を見ていこう。

気になる点

 この論文は全体としては、ゲーム史の重要な部分を描写しているとても有意義なものだと思うが、なまじ同じゲーム雑誌についていろいろ見てきているだけに、いくらか気になる点もある。他の人は言えないことだろうし、せっかくだからその点を指摘してみよう。

ゲーム雑誌の機能について

 読んでいて気になったのは、前回も取り上げた

既に単一機種を対象とした家庭用ゲーム専門誌がメーカーから独立した個性を打ち出すことが難しくなり、それまで以上に公式情報中心の誌面に凝り固まりつつあった一九九〇年代後半

という記述である。ここでは、特定のハードの専門誌は公式情報の掲載に偏重しがちという見方が示されており、それは現在のゲーム雑誌などにおいては確かにそうだとは思うのだが、ゲーム雑誌の機能は果たしてそれだけだろうか。
 ここで見落とされているのは、「攻略」という要素である。ファミコン時代の雑誌をある程度見たことがある人なら理解できると思うが、初期のゲーム雑誌の存在理由の多くは、新作情報を伝えるという以上に、「ゲームの遊び方を伝える」というものだった
 ファミコン必勝本などはそのタイトルが示しているように攻略本からスタートし、読者からの悩み相談を受けての攻略アドバイスを得意としていた。ファミマガをはじめあらゆる雑誌が掲載していた「裏技」についても同様の機能を果たしている。
 そして、攻略の機能はインターネットの登場とともに失われはじめたが、必ずしも完全に消滅したわけではない。とりわけファミマガの遺伝子を受け継いだNintendoスタジアムにおいては、ここに記載するようにこの時代でもポケモンの育成法を中心として攻略の記事は依然として多かった。
 確かにNスタでも攻略記事は2000年代に入るにつれてじわじわと減っていったが、それでもGBA作品の攻略付録の存在が示しているように、そのニーズはあったわけである。
 つまり、ハード専門誌でも攻略を強みとすることは可能だったのであり、ニンドリについてもその点がどうだったのかは他誌と比較してほしかった。
 この疑問はさらに、ゲーム雑誌の誌面の傾向を考える際は、ゲーム雑誌の機能一般についての理解をある程度固めておいた方がよいという見解につながるものだが、その点については後で再度立ち戻ろう。

ゲーム史との接続について

 この論文は読者投稿欄の傾向や個人の投稿者の動向については非常に詳細な反面、取り扱った時期の状況がより大きなゲーム史の中にどのように位置づけられるのかという視点を欠いているように思われる。
 それはある程度は研究目的の違いであり、必ずしもそうしなければいけないというわけではなく、むしろこれだけの情報があるのにゲーム史の側面に触れないのはもったいないという指摘である。
 本論文からゲーム史に関して何かしら読み取れるのは、1997年に「大丈夫?N64」という特集が組まれ、そこから「N64フォーラム」というコーナーが生まれ、N64の現状を心配する人々の声を掲載していたという箇所である。
 この点に関しては、同時期のNスタはポケモンブームでイケイケムードであり(新16号には不安の声もあるが)、あまりそうした雰囲気を感じられなかったので意外だった。
 ここから読み取れるのは、この時期の任天堂ファンの間にかなりの危機感が漂っていたということである。これはゲーム史的にも重要な事実であって、そうした雰囲気はいつ始まって、いつ解消されるのかということがわかれば大きな意義があるだろう。
 なお、任天堂批判的な内容を掲載するというのは、ゲーム雑誌の機能から考えれば特異なことではない。『ゲーム雑誌ガイドブック』でさやわか氏も書いているが特定のソフトの出来への不満や、ゲーム業界への不満の受け皿となることも、ゲーム雑誌が担っていた役割の一つである。その機能はその後クソゲーオブザイヤーが継いだが、そちらも現在では崩壊気味である。
 いずれにせよ、本論文と同様の素材から、ゲーム史の解明に対して貢献できることはもっとあると述べたい。

本論文の意義

 こうした点も踏まえて、本論文から明らかになること、発展が見込まれることについても考察してみよう。

雑誌ごとの性格について

 第一に、本論文はニンドリがどのような雑誌かについては十分に描写できているように思われる。それはきわめて熱心な任天堂ファンたちによる雑誌であり、彼ら・彼女らのファンコミュニティであり、任天堂自体とも濃密なつながりを有した、任天堂を支える人々の交流の場である。この点を意図通りに明らかにできていることが、本論文の最大の貢献といえるだろう
 わかるのはニンドリについてだけではない。主に読者投稿欄の傾向が主だが、丁寧な比較のおかげもあって他の雑誌の性格もわかる。ファミ通は「無法地帯」であり、その代わりにクリエイティブでもある。電撃Nintendoもファミ通寄りで、相対的に任天堂以外のメーカー作品に強い。
 また、Nintendoスタジアムについてもニンドリとの比較により、攻略に強い古風なスタイルを貫いていることがわかる。これはNスタを見るだけではわからなかったことであり、やはり比較というのは学問の基本営為であると認識させてくれる。

ゲーム雑誌の機能について

 先ほど指摘した点を踏まえれば、ゲーム雑誌がどのような機能を果たしてきたのかについての知見がさらに明瞭になるはずである。列挙するならば、次のようになる。 - 公式情報・インタビュー・・・メーカーからの情報を伝え、作品についての正しい理解をもたらす - 攻略・・・そのゲーム作品をどのように遊んだらよいのか、どのような遊び方があるのかを伝える - 作品評価・・・作品をユーザー目線で評価し、購入の際の参考指標を提供する - ゲーム業界情報・・・ゲームの売り上げやメーカーの動向など、ゲーム業界に関する専門的な情報や分析を提供する - ファンコミュニティ・・・メーカーや作品のファン同士が交流する場を提供する - メーカーとの窓口・・・ユーザーとメーカーの間をつなぐ窓口の役割を果たす - 不満の受け皿・・・問題のあるゲームや、業界・メーカーの現状への不満を共有する

 こうした機能は、ユーザーがゲームを楽しむ際に求めていることと対応しており、時代が変化しても変わらないものに思える。現在のゲーム雑誌はこのうち、公式情報・インタビューとゲーム業界情報、メーカーとの窓口の機能くらいしか果たしていないが、それはさまざまなメディアが他の役割を奪ったからである。
 攻略はウェブサイトに加え実況動画やRTA動画が、ファンコミュニティはSNSが、作品評価や不満の受け皿は掲示板(これは現在機能しているか怪しいが)が担っているといえるだろう。
 また公式情報の伝達に関しても、公式ウェブサイトやNintendo Directが役割を奪ってしまったし、業界情報や売り上げ、インタビューはウェブメディアが主に発信している。ゆえにゲーム雑誌は絶滅寸前なのである。

1990年代後半から2000年代初頭のゲーム業界の状況について

 前述の通り、本論文は2000年前後のゲーム業界、とりわけ任天堂ハードとそのファンの状況について、新たな知見をもたらしてくれる。
 時期的にはいわゆるゲーム機戦争の真っ只中である。正確には第二期戦国時代であって、SFCの発売前のPCEやMDと任天堂ハードの争いからのSFC一強時代に続く、任天堂・ソニー・セガの3社のハードが登場し、それぞれのファンに分かれて対抗心を燃やしていた時期といえるだろう。
 本論文ではそのような時期について、人気シリーズであるドラクエとFFがともにPSに移ったためにRPGファンが離れ、なおかつ

ソフトの開発難航や当時の任天堂の少数精鋭主義的開発方針により、ローンチタイトルの『スーパーマリオ64』以降強力なタイトルが長らく出揃わず、本体のみならず期待の大作ソフトも発売が延期されたり、場合によっては開発中止に見舞われるなど不安定な状況が続いた。

という状況だったと記述されている。これを読んで、本当にそうだっただろうかと思った。ここに一覧にしたように、N64が発売された96年時点ではSFCはまだまだ生きており、後期の傑作が次々と発売されていたし、N64に関してもこれだけの面白いソフトがあるわけである。その上ポケモンブームが到来し、1998年に最盛期を迎えていた。
 これらの情報から考えると、当時そんなに任天堂は追い詰められていただろうか?と思える。
 しかし、個人の観測範囲には限界があるわけで、それに対して業界やファンコミュニティ全体の雰囲気を伝えてくれるのがゲーム雑誌である。それを十分に参照した本論文によると、97年のドラクエPS移行、同時期のゼルダ(時のオカリナ)の度々の発売延期などユーザーが危機感を覚える状況が伝えられており、それゆえ「N64フォーラム」のコーナーが設けられたと語られている。
 そのことを踏まえてNスタの方も見返してみると、99年の64DDの規模縮小、2000年のGBAとドルフィン(GC)の発売延期、MOTHER3やファイアーエムブレム64のハード移行(どちらもその後開発中止)、64DDサービス終了告知など、とりわけ2000年頃には悪いニュースが相次ぎ、ユーザーの不安の声も高まっているのが発見できる。
 2001年にはGBAの情報が出だして持ち直すが、GCソフトの情報がない上にN64はソフトが止まるなど、かなりヤバい状況だったことが読み取れる。同年後半にはGBAが順調に滑り出して持ち直すが、それでも2004年のDS、2006年のWiiが当たるまではまだまだ危なかったと予想できる。
 総合すれば、とりわけ1997年から2001年にかけて、任天堂ハードは他のハードに押されて危機的状況であり、それを感じ取ったユーザーの間でも不安や不満が高まっていたということである。
 本論文からはこのようなゲーム史の一側面が読み取れるが、その理解で正しいかどうか、さらなる調査が必要である。

おわりに

 ここまで、論文「任天堂専門誌『Nintendo DREAM』の展開とゲーム文化における意義 : 一九九〇年代後半を中心に」の内容やそこから読み取れることについて、こちらが知っていることを踏まえてさまざまな面から検証してきたが、その結果は実に刺激的なものだったといえる。
 中でも、今回論じたゲーム雑誌の機能についてと、1997~2001年の任天堂の危機については新たな知見が得られた側面が大きかったので、もう少し詳しく調べてみたい気持ちになっている。
 そうした点も含め、この論文は確かにゲーム研究の進展に寄与しているものであり、多数の資料を収集してこれほどのものを作り上げられた著者の小林氏には、手放しで称賛を贈りたい。

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