Nintendoスタジアムから読み解くゲーム史
〜ポケモン全盛期〜


このページでは、Nintendoスタジアム雑誌調査から明らかになることを中心に、
1998〜2002年の期間にゲーム業界に起きていた変化をコラム形式で書いてあります。
雑誌の性格上、内容は任天堂ハードに関することのみです。
これによって、上記ページのような雑誌調査の方法の有効性を示しつつ、ゲーム史の解明を行うことができるでしょう。
この時期と切っても切り離せない出来事としてポケモンブームがあるので、
この記事も「ポケモンブームはゲーム業界に何をもたらしたのか」ということを中心に追っていきます。
実際、Nintendoスタジアムを端から端まで読むことで見えてくることというものがあります。
それが何かについては、以下のページを読んでみてください。

各記事内のNintendoスタジアムの各号を参照している箇所は、(3号)などと号数を表記しています。
読む際は、主な元データである各号詳細(1)(2)と照らし合わせると、よりわかりやすくなるかと思われます。

目次




ポケモンブームとその終息


雑誌概要でも述べたように、Nintendoスタジアムという雑誌とポケモンとは切り離すことができないものである。
この雑誌は初期はほぼポケモンのみを扱っていたわけであるが、これは当時のポケモンブームを色濃く反映している。
トランセル種市が「ポケモン10大ニュース」としてまとめているように(旧5号)、1998年にはピカチュウバージョン発売、ポケモンスタジアム発売、全国大会開催、映画公開、「ポリゴン事件」で中断していたアニメ再開、スタンプラリー開催、ポケモンセンター開店と、
ポケモン関係の話題が山ほど存在していた。その後も快進撃が続き、ゲーム方面だけを見ても、ポケモンスタジアムに続き、ピカチュウげんきでちゅう、ポケモンカードGB、ポケモンスナップ、ポケモンピンボール、ポケモンスタジアム2と、約半年の間に関連作が6本も発売されている。
ポケモンスタジアム2以後は半年の空白があり、その後ポケモン金銀発売となるが、
これ以降は関連作もせいぜい年に2本、本編はリメイク含めても2〜3年に1本という状況になるので、
1ヶ月に1本のペースで関連作が出ていた98年後半〜99年前半がいかにポケモン全盛期だったかがわかる。

金銀の発売以後はペースが落ち、本誌からも記事はどんどん減っていくが、これは人気がなくなったというよりは、異常な熱狂が穏当なレベルに落ち着いたというところだろう。
それは、映画やスタンプラリーが現在(2015年)も続いていることを考えれば理解できるはずである。

ポケモンバトルの変遷


ポケモンスタジアムによって大画面でのプレイが可能となり、ポケモン対戦は誰もが参加可能な競技へと発展した。
ここでは64マリオスタジアムで放映されたポケモン対戦の様子を、雑誌記事から追っていこう。
初期の特徴として挙げられることは、参加者の年齢層が低かったことである。
旧1号記載のポケモンスタジアムカップ予選の参加者は、写真を見る限り小学生から中学生であった。
旧3号に載っている地区代表7人も平均年齢は11.4歳で、小学校高学年付近であることがわかる。
それでも参加者は「シルフカンパニー内にある仮眠室は何階にある?」「ゴルバットは1回に何CCの血を吸い取る?」といったマニアックな筆記試験を突破したというのだから相当なものだ。

これが1年後のニンテンドウカップ'99の代表になると、平均年齢は12.7歳に(1号、学年表記なので中1なら12.5として計算)。
徐々に中高生が目立ち始めるが、予選には幼稚園年長のようなツワモノも見られる。
さらに翌年のニンテンドウカップ2000の代表は平均14.6歳(参照)と、顕著な上昇を見せている。
これには単純なポケモンユーザーの年齢上昇の他に、大会のハイレベル化(念入りに育成、準備することが必要になった)、上述のポケモンブーム終息による間口の縮小が理由として挙げられるが、
21号でトランセル種市が語っている通り、徐々にポケモンバトルの年齢層は上がっていったようだ。

他にも戦術の変遷やルールの変更なども大いにあるが、そこはより詳しいポケモン研究サイトに任せたい。

64・GC時代の任天堂の戦略とは?


雑誌から追うことのできるこの時代の任天堂の販売戦略としては、ポケモンの多角的展開の他に、
インターネットなどによる配信サービスへの注力というものがある。
1998〜2002年の期間に、任天堂は店頭販売以外の数々のゲーム配信手段に挑戦していた。
64DDのランドネットサービス、ニンテンドウパワーの書き換え、モバイルアダプタGBによる配信がそれであり、さらにはGBAと次世代型携帯電話を一体化したものが2001年に発売予定であった(8号)。
これは単なるネット接続可能なゲームボーイではなく、携帯の機能も持ったゲーム機で、
携帯ショップで販売することを想定していたようだ。
残念ながらこの計画は実現せず、通信機能はGBA用ワイヤレスアダプタを経てDSのワイヤレス通信と無線LANへと移り変わっていった。
またランドネットもGBの店頭書き換えもモバイルアダプタGBも比較的短期間でサービス終了してしまい、
ネットを介したソフト配信サービスはニンテンドーDSiまで持ち越されることとなった。

これらの短命サービスに共通する要素として、「ネットによるつながり」「ゲーム販売店以外での販売」という点がある。
前者はブラウザやメールサービスを実装したランドネットやモバイルアダプタGBに当てはまるもので、
後者は64DDは会員への配布、ニンテンドウパワーはローソンでの書き換え、モバイルアダプタGBは携帯ショップという具合であった。
2つのネットサービスは契約の必要性から、書き換えサービスはより手軽にソフトを入手できるようにこうなったわけだが、
当時のユーザー目線から言うと、GB書き換えは利用していたものの対応ソフトがわかりづらかったために不便で
(この問題を解決するため、SFC書き換えは対応ソフトが載ったカタログを配布していた)、
モバイルアダプタGBはどこで売っているのかわからず、64DDに至ってはサービスの存在すら知らなかった。
総じて「ゲーム屋に置いていないものは見つけられない」というのが正直な感想である。
その後、ネット利用はWi-Fiの登場によってずっと手軽になり、書き換えはダウンロード販売とバーチャルコンソールという形で再度実現したことを考えると、
この時期の任天堂の試みは無駄ではなかったのかもしれない。とはいえ、
ゲーム屋にソフトが置いてあることのアピール力の高さは、依然として変わっていないように思われる。

ポケモン時代のゲーム名人・トランセル種市


ファミコン時代には、高橋名人や橋本名人、毛利名人などの「ゲーム名人(ファミコン名人)」が登場し、ちびっ子たちの憧れの的となったことはよく知られているだろう。
同様にちびっ子がゲームに群がったこの時代にも、それと似た「名人」が存在していた。それがトランセル種市である。
彼についての情報はNスタに豊富に載っているので、それを参照してこのゲーム名人について語ってみよう。
トランセル種市は、ゲーム番組「64マリオスタジアム」1997年5月4日放送分にポケモンバトルの解説者として初登場した(旧2号)。
彼は元々徳間インターメディア所属の編集者で、当時は『ファミマガ64』の編集部に所属していたが、前雑誌のファミマガ時代からその名前は見られる(ファミマガには本名で記載されている)。
この点、ほとんどがゲーム会社から送り込まれていたファミコン時代の名人とは事情が少々異なっている。
その後ファミマガ64は休刊したが、新たにNスタが創刊され、、Nスタ旧1号には「ポケモンバトルならこの人におまかせ」と、この段階ですでにポケモン解説者としての知名度を得ていたことがわかる。
彼の番組への出演はポケモンバトルの解説だけではなく、他のゲストとのコーナーや開発者へのインタビューにまで及んでいたが、仕事や個人的都合から途中で休んでいたようで、1999年の11月ごろに復活したことが伝えられている。
その後も出演はあったが、64マリオスタジアムは2000年に終了し、「マリオスクール」に名前を変えたが、Nスタの番組紹介コーナーも6月に終了しているので、その時期に出演していたかどうかはわからない。
活動の幅は雑誌と番組に留まらず、「ポケモンフェスティバル'99春」のようなポケモン大会の解説役としても登場していたようである(旧9号)。
彼自身は2000年11月に解説者引退を表明し(15号)、4年に近い活動を終えた。
引退の理由は、副編集長に就任して仕事が忙しくなったことが語られているが、ポケモンバトルの担い手が小学生から中高生に移り変わったことも挙げられている(21号)。

彼の経歴についてはこれくらいにして、次にトランセル種市のゲーム名人としての受け入れられ方を見ていく。
おそらくゲーム名人を構成する要素は、「メディアやイベントに登場することによる知名度」と「ゲームがうまい(詳しい)という信頼」から成り立っていると思われるので、その2点が種市氏にもあることを示そう。
まず知名度に関しては、番組出演のおかげか、前述のようにNスタ創刊時からすでにあったようだ。雑誌の「トランセル種市とポケモン交換」という企画では、全国の子どもの家に赴いてポケモン交換をするという一種のファンイベントも行われていた。
加えて彼に対する質問コーナーでは、いかに種市氏に読者の興味が集中していたのかがうかがえる。
典型的なものとして「お母さんがトランセル種市さんの大ファンです(旧2号)」という質問があって、それに対する回答として「どうやらボクの人気って、12歳以下のお子様と(中、高生にはかなり不人気)、そのお母さんに集中しているみたい」と述べられているように、ちびっ子とその親に人気があったようだ。
たぶん芸能人に多く向けられるであろう、プライベートを尋ねる質問もちょくちょく見られる。ちなみに好きなポケモンはサンダースだとか(旧2号)。
同様に、「ポケモンに詳しい人」としての信頼もかなりのもので、「ポケモンを強くする教室をやってください(旧2号)」という希望の通りに、Nスタには「トランセル種市が教える」というポケモン解説コーナーが連載され、実際にかなりディープな育成論が展開されていた。
Nスタの攻略付録や攻略本にもこの「トランセル種市が教える」といった言葉がついており、彼のもたらすポケモン情報への信頼が見て取れる。
とはいえ、名人というのはある種の理念的な存在で、ポケモンを「本格的にやりだしたのは番組に出る2カ月前から」とか、「最初は解説を間違えてばかり(旧2号)」と語っているように、彼が最初からポケモンの達人だったわけではないことも伝えられている。
この点もまた、高橋名人に似ているといえるだろう。

このように、トランセル種市はポケモン時代の「ゲーム名人」であったと見ることができる。
彼は「ポケモンのプロ」としてメディアに登場し、ちびっ子の人気を集め、解説に信頼が寄せられていたという点で、かつてのファミコン名人との共通点を多く有しているといえる。
彼の存在は、ファミコン名人という現象を考察する際にも、いい比較の対象となるはずである。
他方でファミコン時代の名人と違う点は、彼がゲーム会社からではなく、ゲーム雑誌から現れたという点である。
これは、トランセル種市の活動が単なる企業の広報活動ではなかったということを意味するかもしれないが、
同時に任天堂とNスタという雑誌の密接さを表しているのかもしれない。
いずれにせよ、ゲームに関わる人間がテレビスターと言えるほどの人気を集めたという氏の功績は、記憶に留めるべきものだろう。

2匹目のドジョウは釣れたのか?
〜ポケモンっぽいソフト乱発の模様〜


ポケモンブームがもたらした影響として最もわかりやすいものが、ポケモンのひそみに倣ったソフトの登場である。
実際に本誌を見ると、これでもかというくらいそれっぽいソフトが載っている。
「ポケモンっぽいソフト」以下のような条件を備えた作品である。 これだけの条件で縛ったら、もうポケモンしかありえないじゃないかと思うかもしれないが、ところがどっこい、以下のようなソフトがこのほとんどに当てはまるのである。
この中のいくつかは2が出ているのもある。
「ゲゲゲの鬼太郎 妖怪創造主現る!」「サンリオタイムネット 未来編/過去編」
「ロボットポンコッツ サン/スター/ムーン(続編あり)」
「王ドロボウJING エンジェル/デビル」「おねがいモンスター」
「スペースネット コスモレッド/コスモブルー」「ネットワーク冒険記バグサイト α/β」
「携帯電獣テレファング パワー/スピード(続編あり)」
「ガチャステ!ダイナデバイス ブルー/レッド(続編あり)」「BLACK BLACK〜ブラブラ〜」「グランボ」

もちろん、これらの中身がまるっきりポケモンというわけではなく、スペースネットは敵を仲間にできる普通のRPGといった感じだし、ガチャステ!は戦闘がロックマンエグゼのようになっている。
他にも雰囲気はポケモンだが戦闘システムが大きく異なる「爆走戦記メタルウォーカー」や「メタモード」もあり、
さらに、独自の世界観をもちポケモンとは十分に区別できる「ドラゴンクエストモンスターズ」や「真・女神転生デビルチルドレン」もシステム的にはほとんどこの条件の通りなのである(メガテンは元からこれに近いわけだが)。

こうしたソフトを挙げたのは、これらをみなポケモンの安易なパクリだとして断罪したいからではない。
そもそもポケモンの完成度が高すぎるので、煮詰めていくとそれに収斂してしまうということも考えられる。
たとえばタイプや属性があるのは無数のキャラを差別化するのに必須だし、マップがマス目のチビキャラなのはGBの表現力にはちょうどいいから、主人公に戦闘能力がないのは普通の子供だから、などだ。
とはいえ、これらのゲームが「ポケモン+何か」という足し算の発想で作られていることは確かで、そうした発想で作れるゲームには限界があるということもまた事実だろう。

また、実はここに挙げた11作品のうち5タイトルは、イマジニアとその傘下のスマイルソフト、ロケットカンパニーの作品である。つまり、ポケモン大増殖の仕掛け主はだいたいがイマジニアなのだ。
ここでサンリオタイムネットの制作者が語っているところによれば、全ての原因はポケモンを積極的に模倣しようとしたイマジニアの「プロデューサーK氏(社長の神藏氏?)」にあるのかもしれない。

この時期に参入して生き残ったメーカーはいるのか?


この時期の発売カレンダーを見ると、とりわけGB市場にはこれまで見かけなかったメーカーが数多く見られる。
本誌「メーカーさんいらっしゃい」コーナーでインタビューを受けているネットビレッジ、NECインターチャネル、スマイルソフトをはじめ、
J・ウイング、スターフィッシュ、ナウプロダクション、TDKコア、サクセス、エム・ティー・オー、グローバル・A・エンタテインメントなどがこの時期から登場している(もう少し前のPSから参入しているものも一部ある)。
こうした中小メーカーがソフト市場にひしめいている状態は、異例のことである。
それは、直後のGBAを見てみればわかる。こちらは任天堂、コナミ、カプコン、ハドソンといったおなじみの古参メーカーのソフトでほぼ占められているからだ。
こうしたメーカーがその後どうなったかについて調べてみよう。
顕著な例がJ・ウイングで、この会社は1998〜2001年の4年間に27本のソフトを発売し、本誌にも広告を打ちまくるなどかなりの存在感を示していたが、2003年のソフトを最後に行方知れずになってしまった。
他にもネットビレッジはGBは「クロスハンター」のみ、GBAは2本だけという状況で(社名がfonfunになってからはDSに何本かある)、NECインターチャネルはGB、GBAともに2本(他ハードにはそれなりにある)、そしてスマイルソフトは2003年に社長が逮捕されたことにより消滅してしまった。

派手に散ったJ・ウイングを見ると結果は惨憺たるものに思えるが、全体を見渡せば、その他のメーカーは生き残っており、この時期は多くのものを次の時代に引き継いでいたことがわかる。
とりわけ注目したいのはTDKコアとエム・ティー・オーだ。
両社は子供向けのペット、昆虫・恐竜、お店やさんといったゲームに特化しており、
これはポケモンブームが切り拓いた低年齢層向けゲームというニッチにうまく適応したのだと理解できる。
さらに消滅したスマイルソフトのライセンスはロケットカンパニーが引き継ぎ(双方ともイマジニアの子会社)、
同様の子供向けソフトに加え、看板ソフトの「メダロット」も存続している。
DS時代にさらに低年齢層ユーザーが拡大したこともあり、こうした会社はうまく軌道に乗れたのであろう。
結論として言えるのは、「ポケモンブームはコナミやナムコのような大メーカーは生まなかったが、低年齢層向けゲーム市場を開拓することによって、子供向けゲームメーカーを生んだ」ということである。

ここで触れたのはゲーム発売会社つまりパブリッシャーだけであって、開発会社であるデベロッパーまでは調べが及ばなかったが、こちらはさらに群雄割拠していたことが予想される。
この時期のデベロッパーについてのさらなる調査は今後の課題にしたい。

ポケモンが開拓した新たな市場


上で述べた「ポケモンブームは低年齢層向け(子供向け)ゲーム市場を開拓した」ということについて、ソフトの面から検証していこう。
カギとなるのはTDKコアやエム・ティー・オーが得意としているペット、昆虫・恐竜、お店やさん(職業体験)についてのゲームだ。
これより以前を考えると、ファミコン時代には、子供向けゲームというとアニメや漫画を題材にしたゲームが主であった。
それも、ジャンルとしてはアクションやRPGであり、キャラだけが変わったものがほとんどだ。
「けいさんゲーム さんすう1年」などもあるにはあるが、これは子供が憧れるものをゲーム化したという方向性とは違うだろう。
スーファミになると、ファミコン世代の年齢上昇を反映してか、なおさら子供向けゲームは見られなくなる。
後に子供向けゲームが隆盛するゲームボーイにおいても、子供向けな見た目なのはキャラゲーである。
この時期のこうした需要は、ゲーム機ではなくおもちゃが担っていたのだろう。

ポケモンが発売しGBが復活した後も、しばらくはこの状況に変化は見られない。
風向きが変わるのは98年から99年である。先鞭をつけたのは光栄の「もんすたあ★レース」やJ・ウイングの「ディノブリーダー」「あにまるぶりーだー」「昆虫博士」辺りで、
従来のゲームの形式を引き継ぎながら、徐々にこの方向へとシフトしている。
パック・イン・ソフトの「ぬし釣り」「牧場物語」シリーズもこの方向性に属しているのは確かで、
前者は98年の「ぬし釣り64」から昆虫採集ができるようになり、牧場物語もGBで続編を次々と出している。
99年には、「かわいいペットショップ物語」「きせかえ物語」が登場し、女児をターゲットにした作品も現れ始めた。
本誌もこの流れを察知したのか、何度も(旧10号、5号、15号、16号)女の子向けゲーム特集を組んでいる。
2000年にはエム・ティー・オーが「なかよしペットシリーズ1 かわいいハムスター」を発売。これはGBで5本、GBAで4本も出すヒットシリーズとなり、
同社のペットシリーズは2015年時点で総計25本を数えている。それだけ需要もあるということだろう。
GBソフト発売数が最も多い2000年は子供向けアニメなどの原作つきゲームが極端に増え、オリジナル作品は埋もれているが、
翌年にもTDKコア初作品の「マクドナルド物語」をはじめ、「おしゃれ日記」「なかよしクッキングシリーズ」「ポケットクッキング」
「ハムスターパラダイス」「わたしのキッチン」「きせかえハムスター」など多数発売されている。
2001年発売のGBAは、発売直後は技術力の問題か古参メーカー作品がほとんどだが、
2002年以降になるとTDKコアが「お花屋さん物語GBA」「なかよし幼稚園」「まんが家デビュー物語」「わんニャンどうぶつ病院」
「ピカピカナース物語」「あかちゃんどうぶつ園」「ひまわりどうぶつ病院」「ハロー!アイドルデビュー」と八面六臂の活躍を見せている。

これを見ると、子供向けというより、女児向けゲームが圧倒的に多いことがわかる。
ミニ四駆やビーダマン、ベイブレードのような玩具系ゲームや「ぼくは航空管制官」「ぼくのカブト虫」「GET!ボクのムシつかまえて」のようなゲームはあるし、
ペット系はどちらにも人気があるかもしれないが、
職業体験系ゲームはほぼ女児向けである。
そもそも多くのゲームが男性目線なので「男性向け」はとりたて必要ないのかもしれないが、
ここから、「低年齢層向けゲームの開拓」は細かく見ると「女児向けゲームの開拓」がメインだったとも言えそうだ。
それを示すかのように、2000年発売のポケモンクリスタルでは初めて女性主人公が導入され、牧場物語シリーズなどでも徐々に女性主人公が選択できるようになった。
この後DSの時代になると、脳トレや学習、実用ゲームが増え出すのは知られている通りだが、
そうしたゲームと同時に、ここで挙げたような低年齢層向けゲームも確かに存続しており、現在に至っている。
GB〜GBA時代に開拓されたこの市場は、今でも賑わっていると言えるだろう。

こうした変化は、年代を追ってみると、98年のペット系ゲームから始まっている。
最初はモンスター系の動物だが、次第に実際の犬猫が加わり始める。共通しているのは育成という要素だ。
この変化を推し進めたのは当時流行していたたまごっちやデジモンによる影響も大きいと考えられるが、
両者に刺激を与えたのはやはりポケモンであろう。
小学生以下の子供が一斉にゲームをやりはじめたのもポケモンのおかげであることは、上に書いたポケモンバトル参加者の年齢層からもわかることである。
したがって、ポケモンブームがペット育成ゲームの可能性を示し、それが低年齢ユーザーを男女問わず呼び込み、
その結果これまで未開拓であった低年齢層、とりわけ女児向けのゲームが発達した
ということが、
1998〜2002年の間に起こったゲーム史上の変化であると結論したい。
もう少しシンプルに言うと、「ポケモンがゲームを『おもちゃ』にした」のである。
これはまったく新しいことではない。ファミコンはそういうものとして現れたのであるし、
ゲームが子供向けからいろいろな年齢層へと広がっていったことは確かであろう。
それでも、年齢層の上昇が進むゲーム業界に新たな風を吹き込み「再玩具化」することができたのはポケモンのおかげである。
また、大作化と製作費の高騰が進み、大企業にしかゲームが出せなくなりつつあった中で、
携帯機において多数のメーカーがひしめく状態を可能とし、ソフトの多様性を確保できたのもGBの復活によるところが大きいといえる。
いずれにせよ、ソフト的にはあまり目立つもののないGB後期とGBAも、このようにゲームの歴史に関与しているのだ。

幻の発売中止ゲームを追え!


ゲームの歴史の上では、表舞台に立つことができたゲーム以外にも、無数の発売中止となったゲームが存在している。
そうしたゲームの裏にも、たくさんの人の努力と苦労の物語が隠れているに違いない。
ここではそんな闇に葬られたゲームのうち、本誌から情報を得られるものをピックアップして、そのゲーム内容を推測してみよう。

ファイアーエムブレム64

幻のFE作品となった本作は、ファミマガ64の1997年9月号(270号)に64DD用タイトルとして登場している。
しかし画面写真などは一切なく、Nintendoスタジアム旧10号にて64への開発移行が発表された後も音沙汰なしだった。
その後もやはり続報はなく、2000年のスペースワールドで、「ファイアーエムブレム64」が取り下げられると同時に、GBA用ソフトとして「ファイアーエムブレム 暗闇の巫女」が発表された。
この作品はその後「封印の剣」として発売されるので、FE64は封印の剣になったのか、と思うかもしれない。
しかし、そう考えるのはちょっと早い。13号掲載の画面写真を見ると、タクティクスオウガのような斜め視点の背景の上にキャラが立っており、その手前に顔グラフィックとウィンドウが表示されているという、
FEとしては未だかつてない画面なのだ。ご存じのとおり、封印の剣の会話は今までと同じく、平面マップの上に顔グラフィックとウィンドウという形なので、この段階ではまったく違った作品に見える。
さらに、この写真では男性と女性が会話しているが、表示されている女性のセリフは、「弓は得意なんです!いっっつも山で狩りをしてましたから」というもので、これは次回作である烈火の剣のレベッカのセリフにそっくりなのだ。
これを見ると、「ファイアーエムブレム64とは封印の剣ではなく、烈火の剣だったのではないか?」という説が思いつくが、
これ以上の情報はなく、単にレベッカのみが作品を移ったのかもしれない。
『メイキングオブFE』に載っていた続報はこちら。

MOTHER3

この作品はもちろんGBAで発売されたが、発売までには非常に紆余曲折があったために、ここにその一端を解説する。
64DD専用ソフトとして開発されていた本作は、作品自体の情報は1997年ごろからファミマガ64に載っており、この段階でタツマイリ村やリュカなどの設定が出ているなど、ストーリー部分は十分に出来上がっていたようだ。
その後サブタイトルが「キマイラの森」「豚王の最期」へと変化していき、ハードは64DDから64へと移行した(旧10号)。
さらに、本誌のカレンダーからは2000年13号にタイトルが消える。
以後は一切情報がないが、ここを見ると、2000年8月22日付で「開発中止宣言」を出していたようだ。
その先は、2003年に開発が再開され、2006年に発売された(ここを参照)。
最初はSFCでの開発で、1994年に開始のようなので、発売までに12年である。ここまで発売が難儀したソフトもないだろう。

ポケモンピクロス

すでに何作か出ていたパズルゲーム、ピクロスのポケモン版。
GB用(カラー対応)で、旧8号に画面写真あり。
ポケモンの姿が左上に表示され、状況によって変化するようだ。
出てくる絵はポケモンで、図鑑に記録されて収集できるようになっていた模様。
13号でカレンダーから姿を消すので、スペースワールド2000で発売中止が発表されたようだ。

スリッ駆ラジッ駆

任天堂が開発していた、64用ソフト。
1999年のスペースワールドで展示されたが、本誌2号にのみ画面写真がある。
「身近なラジコンカーの操作感覚が楽しめるレースゲーム」とのことで、
家の中などを最大4台が走り、コース上には仕掛けもあるようだ。
「レース中に敵車へ接触する「おにごっこ」などのルールもあり、より白熱したレースが味わえる」ともある。
妙なタイトルなのは、「ミニ四駆」という商標が使えないからかもしれない。

ゲームボーイウォーズアドバンス

発売日まで決まっていた本作は、直前に発売中止となり、
次回作と合わせてゲームボーイウォーズアドバンス1+2として発売されることになる。
発売中止の理由は2001年の同時多発テロ事件であるということはどこでも言われているが、
よく調べてみるとここには妙な点がある
日本版が発売中止になったにもかかわらず、欧州版は翌年1月に発売されている。
2にあたるAdvance Wars2も2003年に北米と欧州で発売されており、日本版1+2より1年早い。
これを見ると、あの事件により近い北米と欧州よりも、日本のほうが延期や中止を行っていたことになるが、
海外よりも日本での配慮が必要だったことが不思議に思える。
また、1の北米版は事件の時にはすでに発売されていたようだが、発売日の記述がまちまちで、9月9日とするもの、10日とするもの、12日とするものなどがある。
中には実際は11日発売なものの、任天堂が発売日を操作したと書いてあるものもあり(参考)、かなり怪しいことになっている。

馬穴大作戦

任天堂のGBA用ソフト。13号に画面写真あり。
「自分が馬に乗ってレースに出るタイプの競馬ゲームのようだ」とのこと。
騎手がセリフをしゃべっている以外は見た感じダビスタにそっくり。

ゲームボーイミュージック

20号に掲載されているこのゲームは、発売まで半年以内が予定されており、十分に完成していたようだ。
画面写真も豊富にあり、「十字ボタンとA、Bボタンを操作し、ゲーム感覚で楽器を演奏できる」とある。
画面写真を見てみると、どこかで見覚えのあるキャラクターが・・・これは「大合奏バンドブラザーズ」のバーバラ・バットだ。
不思議に思って調べてみると、このソフトは一度お蔵入りになった後、DSのソフトとして再登場したらしい(参考)。
本誌にある「ポケットスピーカー(仮称)同梱」についても詳細が語られており、セッションの際に複数のGBAの音を合成する役割だったようだ。
また、なんとしてでもバーバラを使いたかったというキャラに対する熱意も語られている。
二作の関連がわかったところで、本誌から読み取れるDS版との違いを見てみよう。
モードはゲーム演奏モードと楽器演奏モードの二つ。
前者は音ゲーで、ギター、ベース、ドラムの中から一つを選び演奏する。
楽譜はおそらく右から左に流れ、十字ボタンでコードを選びつつABボタンで音を出すなど違いも大きい。
楽器演奏モードは作曲はできず、音源を選んでドレミに割り当てられたボタンを押して演奏するというものだ。
つまり多人数プレイの際も楽譜がなく一発勝負だったようだ。

バトランド

25号には2001年スペースワールドの出典タイトルが多数記載されている。一気に紹介しよう。
バトランドは任天堂のGBA用対戦アクションで、HAL研制作。
4人のプレイヤーが同時に戦い「エンブレム」を奪い合うというもので、
「戦士を出す順番が重要」「地形が影響する」とある。
ゼルダのような見下ろし画面だが、内容としてはスマッシュブラザーズに近いのかもしれない。

サーベルウルフ

レア社制作のゲーム。海外では2004年にTHQから発売されているので、ローカライズされなかっただけのようだ。
この時点では任天堂が発売元なので、2002年にレア社がマイクロソフトに売却されたことと関係がありそう。
足場になったり、敵を攻撃できたりするモンスターを配置してマップを進み、宝を持ち帰るゲーム。

ディディーコングパイロット

こちらもレア社制作で、海外でも発売されなかった。
ここの記述によると、任天堂が発売に難色を示したからだとか。
レア社売却後にGBAでの発売を試みたがディディーコングが使用できないため、
「バンジョーとカズーイの大冒険」のキャラクターを使って「Banjo-Pilot」として2005年に発売された。
その際、ディディーコングパイロット時に計画されていた傾きセンサーによる操作はオミットされたようだ。

ドンキーコングレーシング

こちらはレア社のGC用ソフト。おそらく同様の理由で発売中止。
「ディディーコングレーシング」とは異なり、ランビやエンガードといったアニマルフレンドに乗ってレースができるようだ。
タイニーコングの姿も見られる。

ルナブレイズ

HAL研制作、任天堂発売予定だった。
「170種を超える「パワー」の使い方が重要なポイントになる戦闘が斬新。新感覚のシミュレーションRPGだ」という説明。
画面写真は1枚だけで何とも言えないが、複数の召喚獣同士が戦う「カードヒーロー」のようなゲームに見える。

ゴールド★[スター]マウンテン

フロム・ソフトウェアの謎のソフト。25号、26号に画面写真あり。
西部劇の世界観にモンスターといった感じで、主人公は「銃を使いこなし、未開の大地でシェリフと呼ばれる賞金稼ぎを目指す少年」。
ワイルズと呼ばれるモンスターを仲間にし、育成することができる。
アクションRPGだが、ワイルズは自律的に行動するようだ。
発売されなかったのが惜しまれる。

周辺機器をめぐる物語
〜サンセイブとキーズファクトリー〜


ゲーム業界というのは、ソフトとハードを作る会社だけで構成されるものではない。
ゲーム雑誌を作る会社もあれば、周辺機器を開発するメーカーもある。
本誌誌上では、とりわけ「ライトボーイアドバンス」を開発したサンセイブ・エンターテイメントがピックアップされていた(23号)。
記事によれば、同機器は4ヶ月で約15万台を売り上げたという。
このサンセイブという会社はビック東海ブランドでゲーム開発もしており、
「アイギーナの予言」「ゴルゴ13」「バトルマニア」「新世紀オデッセリア」「ルクル」がサンセイブ開発らしい。これはほとんど知られていないことだ。
どちらも静岡市に本社を置いていることもこれに関係しているのかもしれない、
サンセイブと本誌とのやりとりはまだ続き、26号でライトボーイアドバンスの新色アイデアを募集。
続く28号では、「ライトパープル+ホワイト」の発売発表とともに、募集したアンケートの結果を伝えている。
後にサンセイブの側はこの要望にきっちり答え、「サックスブルー」を開発した。
ところがこの新色が掲載されている32号(2002年4月発売)では、発売元がサンセイブではなくキーズファクトリーという会社になっている。
調べてみると、サンセイブ・エンターテイメントは2002年1月30日に、民事再生手続きを申請し、経営破綻してしまっていた(参考)。
株式会社キーズファクトリーはその翌週である2月5日に設立されており、以後はこの会社がサンセイブの事業を引き継いでいるようだ。
一連の記事はまさにこの会社の苦難の時代を伝えているわけだが、キーズファクトリーはその後もゲームアクセサリーを作り続け、
現在でもWiiUや3DSの関連商品があるなど、この分野の老舗ともいえる地位を築いている。
こうした企業もまたゲーム業界を支えているということも、忘れてはならないだろう。


関連コンテンツ

Nintendoスタジアム概要

各号詳細 1998〜2000年

各号詳細 2001〜2002年




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