ゲームの用語事典:「懐古」

Gayaline

 概念に新たな名前を与え、その概念を認識できるようにするということは、新物質の発見にも似た重要なプロセスです。ただしそれは科学研究の場合と違って、日常的にも行われているので、そこには問題や混乱が生じることになります。今回は、そうしたゲーム関係の概念の一つを詳しく検討してみましょう。 


 今回扱うのもそのような概念の一つ「懐古」である。この言葉はもちろんそれまでにも存在していたが、ある時からとりわけネット上で、特定の人々を指す言葉になった。使い方はたとえばこんな感じである。

(何か古いゲームの話題や映像が出る) 「この頃のゲームは良かった。最近のゲームにはこういうのがない」 「また懐古厨か」 「これだから懐古は」

あるいは最近ではこの言葉の広がりを意識して、

「懐古って言われるかもしれないけど、(古いゲーム)が好きなんだ」

という懐古の否定的な意味合いを踏まえての発言も見られる。

こうした用例からは、「懐古」が悪いもので、「懐古厨」はそういった人々を一くくりにしてやっつけるためのワードとして機能していることがわかるだろう。また、その逆の「新しいものをやたらともてはやす人」に対する名前がないのも(一応「新規厨」という言い方はあるようだがあまり見ない)、何か非対称を感じさせる。

 このような状況に対して言いたいのは、確かに懐古には悪い部分があり、それをもって攻撃することにも正当性はあるのだが、あまりにこの見方が広まると、あらゆる「古いものを良いとする人」に対しても安易に懐古と言って否定するようになり、それも問題だということである。

悪い懐古とはどのようなものか

 ではまず、批判されるべき「悪い懐古」について見てみよう。先ほどの例でわかるのは、「昔のゲームが面白いとすること」が、「最近のゲームがつまらないと言うこと」につながっているという話の流れである。これは明らかに問題であって、まず誰も話題にしてないのに突然「最近のゲーム」との比較をしだすというのもあるし、「最近のゲーム」があまりにあいまいで、何と比較しているのかもわからない。これでは「この人は新しいものであれば何だって否定してるんだな」と思われてもおかしくない。

 これは比較対象の一方を一緒くたにしているので問題があるわけだが、対象がはっきりしていても叩かれる場合がある。ニコニコ大百科の「懐古厨」の記事には典型的な懐古の例が載っているが、その一つ「FFは◯作目までが神。〇作目以降はゆとり仕様」というのは、少なくともFFに対象を絞っていることはわかる。正直に言うと、筆者も以前まさにこのような考えに陥っていた。FF7が出た頃に初めてFF3をプレイしてその出来に感動し、「FFは3が頂点。6以降はダメになった」と思っていたことがあった。その偏見が打破されるには、もう少し幅広くゲームをプレイし、視野が広くなる必要があった。現在では、3も6もそれ以降もそれぞれ良いところがあり、単純に優劣をつけられるものではないと思っているが、思い返してみるとこの見方にはある考えが前提とされている。

 その考えとは、「新しいものになるにしたがって悪くなるだろうという時代法則」であり、これがすべての悪い懐古の元凶といえる。「懐古の法則」とでも呼べばいいだろうか。これが頭の中にあると、新しいものであれば何でも否定するという見方につながるのである。

思い出補正と先行者利益

 懐古の人々にとっての悪いニュースはこれだけではない。別の普及している概念として、「思い出補正」というものがある。これは昔のゲーム体験は自然と良いものとして残りやすいということで、悪いものでなく良いものを選り好みする記憶能力の傾向性をこう呼んでいるものと思われる。だが、ここには別の原因があると考えている。それは先行者利益とでも言うべきもので、この場合は人々の記憶に最初に入ってくるゲームが先行者となる。つまり「最初にやったゲームは何だって面白い」ということである。これは誰しも身に覚えのあることだろう。子供の頃は今考えるととんでもないゲームを面白がってプレイしていたという話はよく聞く。それは比較の対象がないためであり、「前やった~に比べるとこれは面白くない」と思わないからである。こうして、古いゲームは面白く思えるような傾向性が存在しているのだ。

 この他にも、「ユーザーが成長したから」ということもよく言われる。たとえば「最近のゲームが面白くないのは、あなたが楽しめてないだけでしょ」という言い方がされ、それは普遍的につまらないわけではないとして懐古が否定されるのだ。

懐古批判も行き過ぎると・・・

 こうして「悪い懐古」の発生要因が明らかになり、それは偏った考えだという見方が普及するのはいいことである。しかし、この懐古対策が進みすぎると、それはそれで問題が発生する。その最たるものは「現につまらないゲームが出てきた時に、その指摘が懐古と言って片付けられてしまう」ことである。まず前提として、いつの時代であろうとダメなゲームはある。そしてそのダメなゲームがシリーズ作品だった時に特にこれが起こりやすい。つまりなんとかの続編に対して、今作はダメだと言った時に、これまでの懐古探しで使われてきたパターンが適用され、それは思い出補正だとか、楽しんでいる人もいるんですよとか言われることになる。しかしこうした批判も万能ではない。思い出補正というのは、古いほうの対象が「思い出の中」にある場合にしか通用しない。これに対しては、今両方をプレイしてみて、その上で判断すればその補正はなくなる。また後者に関してはまさに先ほどの先行者利益で、前作をよく知らないから続編が面白く見えるだけだとも言えるだろう。

こうした見方が極端になるとどうなるか。続編が前作より良いことが絶対となり、それは先ほどの懐古の法則とは真逆の、「新しいものになるにしたがって良くなるだろうという時代法則」を押し付けていることになる。新しいものがすなわち悪いものと考えることが問題なのであれば、その逆もまた問題である。結局のところ時代の流れに安易にパターンを見つけるのが良くないわけだ。

このような行き過ぎた懐古批判もよく広まっている。目安として、古いものを持ち上げただけで懐古と言い出すのは行き過ぎである。そのような人の頭の中では「新しいものになるにしたがって良くなるだろうという時代法則」が前提とされているのが読み取れるわけであり、これに対してはなぜ新しいものは無条件で良いものになるんですか?と返せばいい。

結論:正しい判断のために

 だとしたら、どのように判断するのがいいのか。常識的な話だが、比較する際は偏見を取り払って、両者をより細かく見ていくことである。そして受け取る側は、たとえ昔のゲームが良かったと言っている人がいても、その内容をよく見て悪い懐古でないならば、簡単には否定しないことである。具体的には、比較対象があいまいでないかどうか(最近の~と言ってないかどうか)、両者のことをよく知った上でその結論を出しているかを検討すればいいわけだ。たとえ懐古だと言われたとしても、この2点がしっかりしているのであれば恐れることはない。相手は単なるレッテル貼りを行っているだけである。

 結局のところ、懐古という概念は人間の考え方の傾向性を抽出した便利な批判の道具なのだが、万能ではないということである。そこには常に例外の可能性、つまり古いものが新しいものに勝る場合も存在しうるのだが、何でもかんでも懐古のパターンに当てはめてしまうとそうした例外が見えなくなってしまう。その点に気を付けたほうがいいだろう。

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