ゲームの用語事典:「シリーズ作品」

Gayaline

前回、「懐古」を扱った際にいろいろな事例を見ていてわかったのは、懐古批判やそれによる対立は、とりわけシリーズ作品に多いということです。そこで今回は、このシリーズ作品について考えてみたいと思います。メーカーにとって、ユーザーにとってシリーズ作品とはどのような意味を持つものなのか、その功罪両面について検討してみましょう。

 

シリーズ作品が意味するもの

 まずは、「シリーズ作品とは何か」についてである。そんなことは簡単で、何かの続編ってことでしょと思うかもしれないが、重要なのはある作品をシリーズとすることで何が起こるかである。ゲーム会社が新作をシリーズ作品として出すということは、それによって何らかのメッセージを伝えていると考えられる。それは「この作品は前作と似たようなものですよ」というメッセージである。こうしたメッセージのゆえに、ユーザーはシリーズ作品に対し、単作に比べてより期待を抱くことができる。シリーズ化されるのはそれなりに支持を得たゲームなので、それと似たようなものなら今作も面白いだろうという期待である。これは面白いかどうかが未知な単作に比べて安定感があるといえる。

 このことを言い換えると、シリーズ作品は制作スタッフ、世界観、物語、キャラクターなどの連続性が存在するものだといえる。制作スタッフの連続性のために前作に近いクオリティが見込めるし、物語やキャラクターが好きだった人にはその続編は受け入れられやすいものになる。こうした共通点がありますよということを示しているのが、なんとかの2といったタイトル表記なのだ。

作品間の連続性

 ただしよく見てみると、シリーズ作品のどの面が連続しているかはさまざまである。FFとドラクエを比べてみよう。ドラクエは3までは共通の世界観で、ストーリーもそれなりに関連している。またモンスターもスライムやばくだんいわといったシリーズのほとんどに登場する敵が存在する。ただし前作の主人公が引き続き主人公を務めるというわけではない。他方でFFは、基本的には世界観が作品ごとにバラバラであり、それゆえキャラクターも物語も前作とは関連がない。外見上で共通しているのは魔法の名前や、勝利のファンファーレなどの音楽といった細かな部分のみだったりする。なのでFFでは明確にストーリーがつながっているものは特別扱いとなり、X-2などといったタイトルがつくわけだ。

 ここからわかるのは、一口にシリーズ作品といっても、その連続性には程度の違いが存在するということである。一本の線上に並べて考えるならば、主人公が共通する場合などの「ストーリー上の続編」が連続性が最も強いといえるだろう。逆転裁判なんかがこれだ。その次が世界観のみが共通し、主人公は前作とは別人というドラクエ1-3のケースである。そして一方の端には、ほとんどスタッフのみが共通するというFFの例が存在する。これに加え例外的に、それ以上に不連続なシリーズ作品というのもある。たとえば毛糸のカービィなどは、HAL研とは別会社が元々は別のゲームとして作っていたものだ。これなどはスタッフも(メインは)一致しないが、キャラをカービィにすることで連続性を辛うじて保っているといえる。FFというよりはサガ3の続編に近いFFUSAなども同様だろう。

 こうした連続性の度合いについては、一概にどういう位置がベストだとは言えないが、あまり関連性を持たせすぎると自由度が失われるといえるだろう。たとえば前作主人公が続投することにすると、基本的に前作ラストで問題は解決しているはずなので、何か新しい脅威を不自然でない形で持ち込まなければいけない。またRPGなら前作ラストでものすごく強くなっているはずであり、また一からやり直すためにはそれなりに理由付けが必要である。そう考えると他ジャンルに比べ、RPG主人公の続投は珍しいのかもしれない。

シリーズ作品のイメージ

 こうしたシリーズ作品の連続性により、ユーザーはプレイしていくうちに、このシリーズとはこういうものであるというイメージあるいは「そのシリーズの本質」が形成される。それは主に各作品の共通点を抽出することによって行われる。ドラクエであればスライム(鳥山明デザイン)や音楽、魔法などが「ドラクエ的な要素」として認識されているだろう。悪魔城であれば「ドラキュラは復活し、最後に城が崩れる」とかである。

 ここで挙げたイメージは抽象的なものなのであまり問題にならないが、このユーザーのシリーズへのイメージと新作の内容が乖離していると違和感が生まれる。たとえば、DASHという前例があるにせよ、ロックマンの次回作は3Dアクションですと言われればそれってロックマンなの?と思うだろう。これはロックマンは2Dでボスを選んで倒していくアクションというイメージがあるためである。このような場合には、DASHのケースのようにナンバリングをつけず、派生作品とすることでこれまでのイメージとちょっと相違しますよというメッセージが送られたりもする。

 ロックマンの例からわかるように、続編の連続性がどのくらいあるかということは、タイトルの付け方によって調節することができる。最大の連続性アピールはなんとかの「2」というナンバリングである。一方で、ロックマンとロックマンDASHとか、星のカービィから毛糸のカービィになるとか、あるいはなんとか「外伝」とつけるものはメーカーの側から連続性が低いことが伝えられており、ユーザーもそのことを納得できるようになっている。何気なくつけているように見えるタイトルにも、こうした意味が存在していたのだ。

イメージ形成の過程

 こうしたシリーズのイメージ形成は複雑な過程を辿ることもある。FFは5までは、2を除いてクリスタルがストーリーの中核を担っていた。マリオRPGでのFFっぽい要素としてクリスタラーと4つのクリスタルが出てきたことからも、この点はよく意識されていたことがうかがえる。ところが6からはそのイメージからの脱却が図られ、8までは明確なクリスタルは出てこない。しかし原点回帰を謳った9でクリスタルは復活し、以後の作品にもそれなりの頻度で登場するようになった。クリスタルクロニクルやディシディア、エクスプローラーズといった派生作品でももれなくクリスタルが用いられることから、クリスタルは「その世界がFFだということを納得してもらう要素」として機能していることがわかる。クリスタルの例のようなシンボル的な要素はシリーズの同一性担保のためには重要だし、システム面のイメージよりは制約をもたらさないので便利なものといえる。

 さらに、こうしたシリーズのイメージを打破することが必要になる場合もある。FF6-8はそうだろうし、上述の悪魔城シリーズなどもイメージが徐々に変化していったケースである。このシリーズは月下の夜想曲までは「ドラキュラをバンパイアハンターが倒す物語」だったが、本作で主人公をアルカードとすることで、このパターンが覆された。(バンパイアキラーが先だが)主人公がベルモンド家の出身であることや鞭を使うことなども本作では踏襲されず、ここでの変化によって以降の月輪や暁月、闇の呪印など型にはまらない悪魔城を作ることが可能となった。当然ファンからは抵抗感もあっただろうが、以後の幅広い展開を考えるとそれも必要な改革だったといえる。

 ここまでをまとめると、シリーズ作品のイメージはユーザーにシリーズの同一性を感じさせるものではあるが、同時にシステム的、物語的なマンネリをももたらしうるので、あまりイメージが固定化されるのも良くないということである。

シリーズ作品の抱えるリスク

 さて、メーカー側には安定した人気が得られるというメリットがあり、ユーザー側にも前作に近いクオリティが見込めるというシリーズ作品であるが、決してメリットづくしというわけではない。むしろこのメリットが、とある場合には反転して批判の原因となるのである。

 冒頭で述べたように、続編というのはしばしば、前作のほうが良かったいやそうではないとか、そんなことを言うお前は懐古だとか、ファン層を分断した論争になりやすい。そうした議論の中で、前作と比べるなとか、別々に楽しめばいいだろうと言う人がいるが、これは通らない。というのも最初に言った通り、続編というのはメーカー側が「この作品は前のものとつながりがありますよ」とアピールした存在だからである。そのようなアピールがある限り前作のファンはやって来るし、前作と比較もされる。比較されたくないのだったら続編を名乗らなければいいだけの話である。上で述べたように、世界観だけ使いたいなら「外伝」などとタイトルを工夫する方法もある。確かに、続編から入った人にとってはそうした比較はうっとうしいものであるが、メーカー側から比較してよいと言っている以上、前作ファンを追い出すことはできない。続編というのは、前作との比較を運命づけられた作品なのである。

 同様のことはリメイク作品にも言える。これはだいぶ前にも述べたことだが、リメイク作品が原作と比較されるのは不可避であって、基本的な要素は原作と同じだけにリメイクは比較の目がさらに厳しくなりやすい。そういう意味で、原作を知っている人はリメイクに期待しないほうがよいと言ったのである。

 また、一定のクオリティが見込めるということは、期待のハードルが高まるということでもある。そしてこの期待と実態とが乖離していればいるほど、批判が起こりやすい。初期のクソゲーオブザイヤーがもっぱら「失敗した大作・シリーズ作」を取り上げていたのもこうした落差にのみ目を向けていたからである。クソゲーの議論でもよく過剰な宣伝が問題視されているように、続編として出すということもこれと同じく期待のハードルを高める意味があるのであり、そこで期待に添えないと批判が噴出するのはやむないことといえる。

 まとめるならば、続編はメーカーにとって安定した人気が見込める一方で、リスクもあるということだ。そしてそのリスクを負うことを選択した以上、比較や批判をするなというのは無理な話である。

 ユーザーの続編への期待がいかに高いかということは、シリーズものの売上を見ればよくわかる。シリーズの中で1本問題作があると、売上が落ちるのはその次の作品である。メーカーが頑張って前作の欠点を改善したとしても、往々にしてダメな作品の次は売れない。このことは、シリーズ作品の場合は当の作品の出来よりも、前作の出来によって売上が決定されていることを意味する。そして、シリーズが終了するのもこうした場合である。つまりダメな作品の次が売れないことをよくわかっているメーカーが、売れないと思って続編を出すこと自体を放棄してしまうのである。逆に言えば、当の作品の出来がいかに悪くとも前作が良ければそれなりに売れるので、ダメな続編を「売り逃げ」するケースもあるといえる。だがそれもシリーズ終了というマイナスがついてくるので、まったく推奨されたものではないだろう。

テセウスの船とシリーズのアイデンティティ

 古代ギリシャ時代から伝わるこんな話がある。英雄テセウスの乗っていた船を保存するにあたって、老朽化した部品が少しずつ取り替えられていった。ではすべての部品が新しいものに交換された時に、その船はもはや同じものだと言えるのか?

 この話を聞いた時に、これはまさに長期シリーズの話ではないかと思った。ここで部品に該当するのが制作スタッフである。年月が経過してシリーズのスタッフがそっくり入れ替わった時に、その最新作は第1作と同じシリーズ作品と言えるのか?ということだ。もちろんこのアナロジーは完璧ではない。ここではスタッフの同一性以外の連続性は考慮されていないので、別に基本システムが同じならスタッフが違っても同じだとか、そういうことは言える。あるいはスタッフ間でノウハウというか、シリーズを構成する大事な要素が受け継がれていれば入れ替わっても通用するだろう。だがもし、それなしでスタッフが総入れ替えされ、看板だけつけてそのシリーズだと言い張った場合は?このケースでもファンはついていかなければならないのか?

 さらに、先ほどの話には続きがある。取り外されたテセウスの船の古い部品を集めて、もう一隻船を作ったとしたら、どちらが本物のテセウスの船なのか?というものだ。これに対応するのは、何らかのシリーズを担当していたスタッフが一斉に抜けて、別会社を興した場合などである。思い当たる例があるかもしれない。

 この問題に何らかの結論を述べるつもりはないが、一つ言いたいのは、ユーザーはシリーズ作品という看板にあまり振り回されないほうがいいということである。突然スタッフが入れ替わり、知っているものとはまったく違う「続編」が出てくるのが往々にしてあるということが、実体験からも言える。シリーズのファンだからといって、その中身がどうなろうとファンであり続けなければいけないということは決してない。

シリーズファン同士の対立の構造

 ここに来て、話は前回の懐古のそれと合流することになった。一般に広まっている見方では「~シリーズは何作目まではいいけど、それ以降はダメ」というものは、懐古であり叩かれるべきものだった。前回述べたのは、その見方は多くの場合、単なる「昔はよかった主義」に由来しており、これは擁護できるものではないが、かといって常にこう考えてしまうと、実際にシリーズがダメになった時にそれを指摘できなくなってしまうということである。この「シリーズがダメになる」というのを前回は詳しく触れなかったが、今回の話を踏まえれば、その一つは「以前との連続性に欠ける続編が出た場合」だといえる。このケースではファン側はむしろ「これが何でこのシリーズの続編なんですか」と問いたくなるのである。メーカー側としては、いかなる内容のゲームにもシリーズ作品の看板をつけることはできる。したがってよっぽどひどい場合には、以前との連続性を欠いたシリーズ作品というのも存在しうるのである。

 つまりこの観点からすると、先ほどの発言は「~シリーズは何作目まではいいけど、それ以降はもはやこのシリーズではない」ということを言っている。だがこれも一見してわかるように問題があり、「何であなたがそれを決めるの?」という反応が返ってくるだろう。少なくとも中身によるシリーズ認識は人によってばらつきがあり、一つには決められない。だとするとひとまず公式の主張に従うという方針にも一定の正当性はあり、そうした人々と内容でシリーズを判断する人々の間で対立が起こるのは避けられない。先ほどはシリーズという看板に振り回されないほうがいいと言ったが、他に安定した立ち位置がないのも事実なのだ。

 結局のところ、テセウスの船の話に正解がないのと同じく、新旧シリーズファンの間で対立が起こることも不可避なのだろう。言えることはせいぜい、この戦いに終わりはないので参戦すべきではないということくらいである。

シリーズ作品はブランドである

 こうした特徴を踏まえると、メーカーにとってシリーズ作品とは安定した収入源ではあるものの、その分負うリスクも増していると言えるだろう。もう少し一般化すると、シリーズ作品というのは「ブランド」と似たようなものだと思われる。FFやドラクエに限らず、服であれ腕時計であれブランドというのは高い品質を保証してくれるものであり、ユーザーはブランドを信頼してそうした商品を買うのである。そうしたブランドの下で微妙な商品を提供してしまうことはユーザーの信頼を裏切ることであり、良いか悪いかわからないものを買う場合に比べて失望も大きくなる。ブランドも、ちょっと冒険をしたいとか新規層を開拓したいという場合にはサブブランドを作ったり別ブランドにしたりという選択肢があるわけで、既存ブランドで出すからにはそれなりに責任を負う必要がある。こうした並行関係を踏まえれば、シリーズ作品というのもブランドマネジメントにあたる配慮を十分に行わなければ、ユーザーからの反発を買うだろうということは予想できる。

まとめ

 話がわりと長くなったが、今回の内容をまとめてみよう。

  • シリーズ作品とは、前作と次作が関連しているというメーカーからのアピールである。
  • 成功した作品の次回作を出すことで、ユーザー側にとっては一定の質が保証され、メーカーにとっては安定した売り上げが見込める。
  • シリーズ作品間にはストーリーや世界観、システムにおける連続性が存在し、ユーザーもそのことを認識している。
  • この連続性からシリーズ作品のイメージが生まれるが、そこには利点と制約が付随する。
  • シリーズ作品は必然的に前作と比較されるので、他に比べて批判を招くことが多い。
  • ゲーム会社のスタッフは入れ替わるものであり、それに伴いシリーズの内容も変化するし、看板だけ残して中身がすっかり別物になることも、少なくとも起こりうる。
  • このような場合、新旧シリーズのファン同士の対立は激化してしまうだろう。
  • シリーズの存続のためにはメーカーのブランド管理の配慮が問われている。

ということである。後半は厳しい話が多くなったが、それというのもこれまでシリーズ作品の負の側面にはほとんど注目されていなかったからである。だがそれは、ユーザーにとって信頼の対象であるはずのシリーズ作品が時に悲劇を生むということも頭に入れておいたほうが、ファン活動にとっても健全だろうということを思うゆえなのだ。

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