ゲーム情報専門・火の鳥ブログ

最新の記事

2019.05.06

オウガバトルシリーズの元ネタ本

 今回は、タクティクスオウガをはじめとするオウガバトルサーガを作るにあたって制作スタッフがまず確実に参照したであろう資料を紹介します。数多くのキャラクター名がある一冊の本から取られているわけです。


 久々に更新した「ファンタジー博物館」の新コンテンツ、「悪魔族」はもうご覧いただけただろうか。これはユダヤ・キリスト教の悪魔についての伝承を簡単にまとめたものだが、多くのアニメやゲームはこうした伝承を元ネタないしインスピレーション元として利用している。

 あのリストを見れば知っている名前が多いだろうし、これはここから取ったんだなというのも知れるだろうが、それ以上に、作者はこの本を読んでいた、ということがかなりの見込みで推定できるケースもある。

 その一例がFF3の元ネタを調べていた時で、どうも『幻想世界の住人たち』を見たらしいということがわかった。本まで絞れるのは、他には載っていない誤った表記が用いられているためである。詳しくはこちらを見てほしい。

 そのような元ネタ本が推定できる例がもう一つある。こちらは99%確かだといえる話だ。それは、タクティクスオウガをはじめとするオウガバトルサーガのスタッフが、コラン・ド・プランシー著、床鍋剛彦訳『地獄の辞典』(講談社)を読んでいたということである。それは何より、本書に記載されている悪魔の一覧を見れば明らかだ。以下に索引を載せる。

地獄の辞典1

地獄の辞典2

地獄の辞典3

地獄の辞典4

 タクティクスオウガ以降の作品を知っていれば、見覚えのある名前ばかりだろう。アロセールがいる、アンドラスがいる、アリオーシュがいる、オーソンヌもいる。ベイレヴラやビスク・ラ・ヴァレもいる。オウガバトルの敵味方が勢ぞろいである。本書に載っていてオウガバトルに出てくるキャラクターを以下に一覧にまとめてみよう。ついでにいつもの二つ名もつけてみた。()は本と表記が異なっているものだ。

タクティクスオウガ
アロセール・ダーニャ 暗黒騎士アンドラス 戦慄のアナベルグ 暗黒神アスモデ 暗黒騎士バールゼフォン 魔術師バイアン バルバトス枢機卿 魔女ベルゼビュート 東雲のカークリノーラス(カークリノラース) 災いのダゴン デボルド・オブデロード 海賊船長エルリグ 毒使いのファルファデ 騎士フォルカス 剣聖ハボリム 竜使いハルファス 竜騎兵ジュヌーン(ジェヌーン) 騎士レオナール 魔導士ラドラム 暗黒騎士バルバス(マルバス) 暗黒騎士マルティム 屍術師ニバス 聖王オベロン 僧侶オリアス 竜使いオクシオーヌ 暗黒騎士オズ 騎士ラウアール ロデリック王 ロンウェー公爵 拘泥のスタノスカ 暗黒騎士ランスロット・タルタロス タムズ 白魔導士ヴェパール 嘆きのヴェルドレ 暗黒騎士ヴォラック ヴォルテール 騎士ザエボス 傭兵ザパン
オウガバトル64

冥煌騎士アマゼロト 流連騎士アリオーシュ 開明獣ビスク 明星のフレデリック 御竜氏フリアエ 南部将軍ゴデスラス 中央官吏ケリコフ 鳴弦士リーデル 殉教者ルーガルー 邪眼大公ミュルミュール 冥煌騎士プルフラス 竜心王リチャード 冥煌騎士タムズ 冥煌騎士ヴァプラ 中央騎士エウリノーム・レイド

タクティクスオウガ外伝
聖炎騎士オーソンヌ 人魚ベイレヴラ セルヴァン・メンダークス 教皇の手シビュラ 祭祀ユフィール 召喚士エルリック(エルリク) 海賊スタノスカ 白牙騎士ミューリン(ミュリン) 白牙騎士シトリ 白牙騎士ニッカール 悪鬼リモン 死の誘い人ミュカレー(ミュカレ) 聖なる悪魔ラウアール

 タクティクスオウガは大物もモブも敵将大集合という感じだが、雷神アロセールやハボリム先生にオリアス、オクシオーヌなども混じっている。メインキャラ以外はここから取ったということなのだろう。ザパンとかニバスは他では見たことがないので、なおのことこの本を参照した証拠といえる。また味方のはずのレオナールとロンウェーがいるのも示唆的だ。あとバルバス(マルバス)とマルティムは隣同士の項目で、ここでも仲がいいようだ。

 オウガバトル64は冥煌騎士が勢ぞろいしていて非常に美しい。ローディス人だけではなくゴデスラスやケリコフなどパラティヌスの悪いやつらも混じっている。フレデリックもいるが。タクティクスオウガ外伝も敵側に多い。まあ主人公も最終的には載ってるんだけど。マイナー作品であるオウガバトル外伝ゼノビアの皇子にはここからの引用は見当たらなかった。


 これだけ一致していればこの本がネタ元であるのは間違いないと言えそうだが、さらに証拠がある。それは本書特有の表記である。この本は元がフランス語である関係上、いくつかフランス語のカタカナ表記になっている。代表的なのがアロセールAlocerで、これは普通はアロケスと呼ばれているソロモン72柱の一体である。同様にムルムルがミュルミュールとか、ベルゼブブがベルゼビュートとか、フランス語にしかない表記がオウガバトルには使われている。他にフランス語の悪魔辞典がない限り、この本を参照したのは明らかだろう。何より著者のコラン・ド・プランシーも、デニムの父プランシー神父として登場しているのだ。本書の発売も1990年で、タクティクスオウガには間に合う。初代伝説のオウガバトルには参照した形跡がないが、この段階ではスタッフが未入手だったと思われる。

 ちなみに後の2作品、オウガバトル64とタクティクスオウガ外伝は松野泰己氏が関わっていないオウガバトルだが、それでもこの本からの引用が続いているということは、この本は松野氏と一緒に移籍しなかったということだろう。ある種オウガバトルサーガの魂でもあるので、ファンの方はぜひ入手することをおすすめする。


 今回のネタ元の発見から言えるのは、ちゃんとした世界観を作れる人は情報収集を欠かさないということだろう。同じような例では、初代ガンダムのア・バオア・クーはおそらくボルヘスの『幻獣辞典』を参照した結果だとかいろいろある。こうした幻想生物に関する資料は現在ではさらに豊富に存在するので、創作を志す人はできるだけこのようなアンテナを広げていってほしい。


2019.04.27

ゲームの用語事典「シリーズ作品」

 前回、「懐古」を扱った際にいろいろな事例を見ていてわかったのは、懐古批判やそれによる対立は、とりわけシリーズ作品に多いということです。そこで今回は、このシリーズ作品について考えてみたいと思います。メーカーにとって、ユーザーにとってシリーズ作品とはどのような意味を持つものなのか、その功罪両面について検討してみましょう。

 

シリーズ作品が意味するもの

 まずは、「シリーズ作品とは何か」についてである。そんなことは簡単で、何かの続編ってことでしょと思うかもしれないが、重要なのはある作品をシリーズとすることで何が起こるかである。ゲーム会社が新作をシリーズ作品として出すということは、それによって何らかのメッセージを伝えていると考えられる。それは「この作品は前作と似たようなものですよ」というメッセージである。こうしたメッセージのゆえに、ユーザーはシリーズ作品に対し、単作に比べてより期待を抱くことができる。シリーズ化されるのはそれなりに支持を得たゲームなので、それと似たようなものなら今作も面白いだろうという期待である。これは面白いかどうかが未知な単作に比べて安定感があるといえる。

 このことを言い換えると、シリーズ作品は制作スタッフ、世界観、物語、キャラクターなどの連続性が存在するものだといえる。制作スタッフの連続性のために前作に近いクオリティが見込めるし、物語やキャラクターが好きだった人にはその続編は受け入れられやすいものになる。こうした共通点がありますよということを示しているのが、なんとかの2といったタイトル表記なのだ。

 

作品間の連続性

 ただしよく見てみると、シリーズ作品のどの面が連続しているかはさまざまである。FFとドラクエを比べてみよう。ドラクエは3までは共通の世界観で、ストーリーもそれなりに関連している。またモンスターもスライムやばくだんいわといったシリーズのほとんどに登場する敵が存在する。ただし前作の主人公が引き続き主人公を務めるというわけではない。他方でFFは、基本的には世界観が作品ごとにバラバラであり、それゆえキャラクターも物語も前作とは関連がない。外見上で共通しているのは魔法の名前や、勝利のファンファーレなどの音楽といった細かな部分のみだったりする。なのでFFでは明確にストーリーがつながっているものは特別扱いとなり、X-2などといったタイトルがつくわけだ。

 ここからわかるのは、一口にシリーズ作品といっても、その連続性には程度の違いが存在するということである。一本の線上に並べて考えるならば、主人公が共通する場合などの「ストーリー上の続編」が連続性が最も強いといえるだろう。逆転裁判なんかがこれだ。その次が世界観のみが共通し、主人公は前作とは別人というドラクエ1-3のケースである。そして一方の端には、ほとんどスタッフのみが共通するというFFの例が存在する。これに加え例外的に、それ以上に不連続なシリーズ作品というのもある。たとえば毛糸のカービィなどは、HAL研とは別会社が元々は別のゲームとして作っていたものだ。これなどはスタッフも(メインは)一致しないが、キャラをカービィにすることで連続性を辛うじて保っているといえる。FFというよりはサガ3の続編に近いFFUSAなども同様だろう。

 こうした連続性の度合いについては、一概にどういう位置がベストだとは言えないが、あまり関連性を持たせすぎると自由度が失われるといえるだろう。たとえば前作主人公が続投することにすると、基本的に前作ラストで問題は解決しているはずなので、何か新しい脅威を不自然でない形で持ち込まなければいけない。またRPGなら前作ラストでものすごく強くなっているはずであり、また一からやり直すためにはそれなりに理由付けが必要である。そう考えると他ジャンルに比べ、RPG主人公の続投は珍しいのかもしれない。

 

シリーズ作品のイメージ

 こうしたシリーズ作品の連続性により、ユーザーはプレイしていくうちに、このシリーズとはこういうものであるというイメージあるいは「そのシリーズの本質」が形成される。それは主に各作品の共通点を抽出することによって行われる。ドラクエであればスライム(鳥山明デザイン)や音楽、魔法などが「ドラクエ的な要素」として認識されているだろう。悪魔城であれば「ドラキュラは復活し、最後に城が崩れる」とかである。

 ここで挙げたイメージは抽象的なものなのであまり問題にならないが、このユーザーのシリーズへのイメージと新作の内容が乖離していると違和感が生まれる。たとえば、DASHという前例があるにせよ、ロックマンの次回作は3Dアクションですと言われればそれってロックマンなの?と思うだろう。これはロックマンは2Dでボスを選んで倒していくアクションというイメージがあるためである。このような場合には、DASHのケースのようにナンバリングをつけず、派生作品とすることでこれまでのイメージとちょっと相違しますよというメッセージが送られたりもする。

 ロックマンの例からわかるように、続編の連続性がどのくらいあるかということは、タイトルの付け方によって調節することができる。最大の連続性アピールはなんとかの「2」というナンバリングである。一方で、ロックマンとロックマンDASHとか、星のカービィから毛糸のカービィになるとか、あるいはなんとか「外伝」とつけるものはメーカーの側から連続性が低いことが伝えられており、ユーザーもそのことを納得できるようになっている。何気なくつけているように見えるタイトルにも、こうした意味が存在していたのだ。

 

イメージ形成の過程

 こうしたシリーズのイメージ形成は複雑な過程を辿ることもある。FFは5までは、2を除いてクリスタルがストーリーの中核を担っていた。マリオRPGでのFFっぽい要素としてクリスタラーと4つのクリスタルが出てきたことからも、この点はよく意識されていたことがうかがえる。ところが6からはそのイメージからの脱却が図られ、8までは明確なクリスタルは出てこない。しかし原点回帰を謳った9でクリスタルは復活し、以後の作品にもそれなりの頻度で登場するようになった。クリスタルクロニクルやディシディア、エクスプローラーズといった派生作品でももれなくクリスタルが用いられることから、クリスタルは「その世界がFFだということを納得してもらう要素」として機能していることがわかる。クリスタルの例のようなシンボル的な要素はシリーズの同一性担保のためには重要だし、システム面のイメージよりは制約をもたらさないので便利なものといえる。

 さらに、こうしたシリーズのイメージを打破することが必要になる場合もある。FF6-8はそうだろうし、上述の悪魔城シリーズなどもイメージが徐々に変化していったケースである。このシリーズは月下の夜想曲までは「ドラキュラをバンパイアハンターが倒す物語」だったが、本作で主人公をアルカードとすることで、このパターンが覆された。(バンパイアキラーが先だが)主人公がベルモンド家の出身であることや鞭を使うことなども本作では踏襲されず、ここでの変化によって以降の月輪や暁月、闇の呪印など型にはまらない悪魔城を作ることが可能となった。当然ファンからは抵抗感もあっただろうが、以後の幅広い展開を考えるとそれも必要な改革だったといえる。

 ここまでをまとめると、シリーズ作品のイメージはユーザーにシリーズの同一性を感じさせるものではあるが、同時にシステム的、物語的なマンネリをももたらしうるので、あまりイメージが固定化されるのも良くないということである。

 

シリーズ作品の抱えるリスク

 さて、メーカー側には安定した人気が得られるというメリットがあり、ユーザー側にも前作に近いクオリティが見込めるというシリーズ作品であるが、決してメリットづくしというわけではない。むしろこのメリットが、とある場合には反転して批判の原因となるのである。

 冒頭で述べたように、続編というのはしばしば、前作のほうが良かったいやそうではないとか、そんなことを言うお前は懐古だとか、ファン層を分断した論争になりやすい。そうした議論の中で、前作と比べるなとか、別々に楽しめばいいだろうと言う人がいるが、これは通らない。というのも最初に言った通り、続編というのはメーカー側が「この作品は前のものとつながりがありますよ」とアピールした存在だからである。そのようなアピールがある限り前作のファンはやって来るし、前作と比較もされる。比較されたくないのだったら続編を名乗らなければいいだけの話である。上で述べたように、世界観だけ使いたいなら「外伝」などとタイトルを工夫する方法もある。確かに、続編から入った人にとってはそうした比較はうっとうしいものであるが、メーカー側から比較してよいと言っている以上、前作ファンを追い出すことはできない。続編というのは、前作との比較を運命づけられた作品なのである。

 同様のことはリメイク作品にも言える。これはだいぶ前にも述べたことだが、リメイク作品が原作と比較されるのは不可避であって、基本的な要素は原作と同じだけにリメイクは比較の目がさらに厳しくなりやすい。そういう意味で、原作を知っている人はリメイクに期待しないほうがよいと言ったのである。

 また、一定のクオリティが見込めるということは、期待のハードルが高まるということでもある。そしてこの期待と実態とが乖離していればいるほど、批判が起こりやすい。初期のクソゲーオブザイヤーがもっぱら「失敗した大作・シリーズ作」を取り上げていたのもこうした落差にのみ目を向けていたからである。クソゲーの議論でもよく過剰な宣伝が問題視されているように、続編として出すということもこれと同じく期待のハードルを高める意味があるのであり、そこで期待に添えないと批判が噴出するのはやむないことといえる。

 まとめるならば、続編はメーカーにとって安定した人気が見込める一方で、リスクもあるということだ。そしてそのリスクを負うことを選択した以上、比較や批判をするなというのは無理な話である。

 ユーザーの続編への期待がいかに高いかということは、シリーズものの売上を見ればよくわかる。シリーズの中で1本問題作があると、売上が落ちるのはその次の作品である。メーカーが頑張って前作の欠点を改善したとしても、往々にしてダメな作品の次は売れない。このことは、シリーズ作品の場合は当の作品の出来よりも、前作の出来によって売上が決定されていることを意味する。そして、シリーズが終了するのもこうした場合である。つまりダメな作品の次が売れないことをよくわかっているメーカーが、売れないと思って続編を出すこと自体を放棄してしまうのである。逆に言えば、当の作品の出来がいかに悪くとも前作が良ければそれなりに売れるので、ダメな続編を「売り逃げ」するケースもあるといえる。だがそれもシリーズ終了というマイナスがついてくるので、まったく推奨されたものではないだろう。

 

テセウスの船とシリーズのアイデンティティ

 古代ギリシャ時代から伝わるこんな話がある。英雄テセウスの乗っていた船を保存するにあたって、老朽化した部品が少しずつ取り替えられていった。ではすべての部品が新しいものに交換された時に、その船はもはや同じものだと言えるのか?

 この話を聞いた時に、これはまさに長期シリーズの話ではないかと思った。ここで部品に該当するのが制作スタッフである。年月が経過してシリーズのスタッフがそっくり入れ替わった時に、その最新作は第1作と同じシリーズ作品と言えるのか?ということだ。もちろんこのアナロジーは完璧ではない。ここではスタッフの同一性以外の連続性は考慮されていないので、別に基本システムが同じならスタッフが違っても同じだとか、そういうことは言える。あるいはスタッフ間でノウハウというか、シリーズを構成する大事な要素が受け継がれていれば入れ替わっても通用するだろう。だがもし、それなしでスタッフが総入れ替えされ、看板だけつけてそのシリーズだと言い張った場合は?このケースでもファンはついていかなければならないのか?

 さらに、先ほどの話には続きがある。取り外されたテセウスの船の古い部品を集めて、もう一隻船を作ったとしたら、どちらが本物のテセウスの船なのか?というものだ。これに対応するのは、何らかのシリーズを担当していたスタッフが一斉に抜けて、別会社を興した場合などである。思い当たる例があるかもしれない。

 この問題に何らかの結論を述べるつもりはないが、一つ言いたいのは、ユーザーはシリーズ作品という看板にあまり振り回されないほうがいいということである。突然スタッフが入れ替わり、知っているものとはまったく違う「続編」が出てくるのが往々にしてあるということが、実体験からも言える。シリーズのファンだからといって、その中身がどうなろうとファンであり続けなければいけないということは決してない。

 

シリーズファン同士の対立の構造

 ここに来て、話は前回の懐古のそれと合流することになった。一般に広まっている見方では「~シリーズは何作目まではいいけど、それ以降はダメ」というものは、懐古であり叩かれるべきものだった。前回述べたのは、その見方は多くの場合、単なる「昔はよかった主義」に由来しており、これは擁護できるものではないが、かといって常にこう考えてしまうと、実際にシリーズがダメになった時にそれを指摘できなくなってしまうということである。この「シリーズがダメになる」というのを前回は詳しく触れなかったが、今回の話を踏まえれば、その一つは「以前との連続性に欠ける続編が出た場合」だといえる。このケースではファン側はむしろ「これが何でこのシリーズの続編なんですか」と問いたくなるのである。メーカー側としては、いかなる内容のゲームにもシリーズ作品の看板をつけることはできる。したがってよっぽどひどい場合には、以前との連続性を欠いたシリーズ作品というのも存在しうるのである。

 つまりこの観点からすると、先ほどの発言は「~シリーズは何作目まではいいけど、それ以降はもはやこのシリーズではない」ということを言っている。だがこれも一見してわかるように問題があり、「何であなたがそれを決めるの?」という反応が返ってくるだろう。少なくとも中身によるシリーズ認識は人によってばらつきがあり、一つには決められない。だとするとひとまず公式の主張に従うという方針にも一定の正当性はあり、そうした人々と内容でシリーズを判断する人々の間で対立が起こるのは避けられない。先ほどはシリーズという看板に振り回されないほうがいいと言ったが、他に安定した立ち位置がないのも事実なのだ。

 結局のところ、テセウスの船の話に正解がないのと同じく、新旧シリーズファンの間で対立が起こることも不可避なのだろう。言えることはせいぜい、この戦いに終わりはないので参戦すべきではないということくらいである。

 

シリーズ作品はブランドである

 こうした特徴を踏まえると、メーカーにとってシリーズ作品とは安定した収入源ではあるものの、その分負うリスクも増していると言えるだろう。もう少し一般化すると、シリーズ作品というのは「ブランド」と似たようなものだと思われる。FFやドラクエに限らず、服であれ腕時計であれブランドというのは高い品質を保証してくれるものであり、ユーザーはブランドを信頼してそうした商品を買うのである。そうしたブランドの下で微妙な商品を提供してしまうことはユーザーの信頼を裏切ることであり、良いか悪いかわからないものを買う場合に比べて失望も大きくなる。ブランドも、ちょっと冒険をしたいとか新規層を開拓したいという場合にはサブブランドを作ったり別ブランドにしたりという選択肢があるわけで、既存ブランドで出すからにはそれなりに責任を負う必要がある。こうした並行関係を踏まえれば、シリーズ作品というのもブランドマネジメントにあたる配慮を十分に行わなければ、ユーザーからの反発を買うだろうということは予想できる。

 

まとめ

 話がわりと長くなったが、今回の内容をまとめてみよう。

  • シリーズ作品とは、前作と次作が関連しているというメーカーからのアピールである。
  • 成功した作品の次回作を出すことで、ユーザー側にとっては一定の質が保証され、メーカーにとっては安定した売り上げが見込める
  • シリーズ作品間にはストーリーや世界観、システムにおける連続性が存在し、ユーザーもそのことを認識している。
  • この連続性からシリーズ作品のイメージが生まれるが、そこには利点と制約が付随する。
  • シリーズ作品は必然的に前作と比較されるので、他に比べて批判を招くことが多い。
  • ゲーム会社のスタッフは入れ替わるものであり、それに伴いシリーズの内容も変化するし、看板だけ残して中身がすっかり別物になることも、少なくとも起こりうる。
  • このような場合、新旧シリーズのファン同士の対立は激化してしまうだろう。
  • シリーズの存続のためにはメーカーのブランド管理の配慮が問われている。

ということである。後半は厳しい話が多くなったが、それというのもこれまでシリーズ作品の負の側面にはほとんど注目されていなかったからである。だがそれは、ユーザーにとって信頼の対象であるはずのシリーズ作品が時に悲劇を生むということも頭に入れておいたほうが、ファン活動にとっても健全だろうということを思うゆえなのだ。


2019.04.14

ゲームの用語事典:「懐古」

 概念に新たな名前を与え、その概念を認識できるようにするということは、新物質の発見にも似た重要なプロセスです。ただしそれは科学研究の場合と違って、日常的にも行われているので、そこには問題や混乱が生じることになります。今回は、そうしたゲーム関係の概念の一つを詳しく検討してみましょう。


 今回扱うのもそのような概念の一つ「懐古」である。この言葉はもちろんそれまでにも存在していたが、ある時からとりわけネット上で、特定の人々を指す言葉になった。使い方はたとえばこんな感じである。

 

(何か古いゲームの話題や映像が出る)
「この頃のゲームは良かった。最近のゲームにはこういうのがない」
「また懐古厨か」
「これだから懐古は」

 

あるいは最近ではこの言葉の広がりを意識して、

「懐古って言われるかもしれないけど、(古いゲーム)が好きなんだ」

という懐古の否定的な意味合いを踏まえての発言も見られる。

 

こうした用例からは、「懐古」が悪いもので、「懐古厨」はそういった人々を一くくりにしてやっつけるためのワードとして機能していることがわかるだろう。また、その逆の「新しいものをやたらともてはやす人」に対する名前がないのも(一応「新規厨」という言い方はあるようだがあまり見ない)、何か非対称を感じさせる。

 このような状況に対して言いたいのは、確かに懐古には悪い部分があり、それをもって攻撃することにも正当性はあるのだが、あまりにこの見方が広まると、あらゆる「古いものを良いとする人」に対しても安易に懐古と言って否定するようになり、それも問題だということである。

 

悪い懐古とはどのようなものか

 ではまず、批判されるべき「悪い懐古」について見てみよう。先ほどの例でわかるのは、「昔のゲームが面白いとすること」が、「最近のゲームがつまらないと言うこと」につながっているという話の流れである。これは明らかに問題であって、まず誰も話題にしてないのに突然「最近のゲーム」との比較をしだすというのもあるし、「最近のゲーム」があまりにあいまいで、何と比較しているのかもわからない。これでは「この人は新しいものであれば何だって否定してるんだな」と思われてもおかしくない。

 これは比較対象の一方を一緒くたにしているので問題があるわけだが、対象がはっきりしていても叩かれる場合がある。ニコニコ大百科の「懐古厨」の記事には典型的な懐古の例が載っているが、その一つ「FFは◯作目までが神。〇作目以降はゆとり仕様」というのは、少なくともFFに対象を絞っていることはわかる。正直に言うと、筆者も以前まさにこのような考えに陥っていた。FF7が出た頃に初めてFF3をプレイしてその出来に感動し、「FFは3が頂点。6以降はダメになった」と思っていたことがあった。その偏見が打破されるには、もう少し幅広くゲームをプレイし、視野が広くなる必要があった。現在では、3も6もそれ以降もそれぞれ良いところがあり、単純に優劣をつけられるものではないと思っているが、思い返してみるとこの見方にはある考えが前提とされている。

 その考えとは、「新しいものになるにしたがって悪くなるだろうという時代法則」であり、これがすべての悪い懐古の元凶といえる。「懐古の法則」とでも呼べばいいだろうか。これが頭の中にあると、新しいものであれば何でも否定するという見方につながるのである。

 

思い出補正と先行者利益

 懐古の人々にとっての悪いニュースはこれだけではない。別の普及している概念として、「思い出補正」というものがある。これは昔のゲーム体験は自然と良いものとして残りやすいということで、悪いものでなく良いものを選り好みする記憶能力の傾向性をこう呼んでいるものと思われる。だが、ここには別の原因があると考えている。それは先行者利益とでも言うべきもので、この場合は人々の記憶に最初に入ってくるゲームが先行者となる。つまり「最初にやったゲームは何だって面白い」ということである。これは誰しも身に覚えのあることだろう。子供の頃は今考えるととんでもないゲームを面白がってプレイしていたという話はよく聞く。それは比較の対象がないためであり、「前やった~に比べるとこれは面白くない」と思わないからである。こうして、古いゲームは面白く思えるような傾向性が存在しているのだ。

 この他にも、「ユーザーが成長したから」ということもよく言われる。たとえば「最近のゲームが面白くないのは、あなたが楽しめてないだけでしょ」という言い方がされ、それは普遍的につまらないわけではないとして懐古が否定されるのだ。

 

懐古批判も行き過ぎると・・・

 こうして「悪い懐古」の発生要因が明らかになり、それは偏った考えだという見方が普及するのはいいことである。しかし、この懐古対策が進みすぎると、それはそれで問題が発生する。その最たるものは「現につまらないゲームが出てきた時に、その指摘が懐古と言って片付けられてしまう」ことである。まず前提として、いつの時代であろうとダメなゲームはある。そしてそのダメなゲームがシリーズ作品だった時に特にこれが起こりやすい。つまりなんとかの続編に対して、今作はダメだと言った時に、これまでの懐古探しで使われてきたパターンが適用され、それは思い出補正だとか、楽しんでいる人もいるんですよとか言われることになる。しかしこうした批判も万能ではない。思い出補正というのは、古いほうの対象が「思い出の中」にある場合にしか通用しない。これに対しては、今両方をプレイしてみて、その上で判断すればその補正はなくなる。また後者に関してはまさに先ほどの先行者利益で、前作をよく知らないから続編が面白く見えるだけだとも言えるだろう。

こうした見方が極端になるとどうなるか。続編が前作より良いことが絶対となり、それは先ほどの懐古の法則とは真逆の、「新しいものになるにしたがって良くなるだろうという時代法則」を押し付けていることになる。新しいものがすなわち悪いものと考えることが問題なのであれば、その逆もまた問題である。つまり時代の流れに安易にパターンを見つけるのが良くないわけだ。

このような行き過ぎた懐古批判もよく広まっている。目安として、古いものを持ち上げただけで懐古と言い出すのは行き過ぎである。そのような人の頭の中では「新しいものになるにしたがって良くなるだろうという時代法則」が前提とされているのが読み取れるわけであり、これに対してはなぜ新しいものは無条件で良いものになるんですか?と返せばいい。

 

結論:正しい判断のために

 だとしたら、どのように判断するのがいいのか。常識的な話だが、比較する際は偏見を取り払って、両者をより細かく見ていくことである。そして受け取る側は、たとえ昔のゲームが良かったと言っている人がいても、その内容をよく見て悪い懐古でないならば、簡単には否定しないことである。具体的には、比較対象があいまいでないかどうか(最近の~と言ってないかどうか)、両者のことをよく知った上でその結論を出しているかを検討すればいいわけだ。たとえ懐古だと言われたとしても、この2点がしっかりしているのであれば恐れることはない。相手は単なるレッテル貼りを行っているだけである。

 結局のところ、懐古という概念は人間の考え方の傾向性を抽出した便利な批判の道具なのだが、万能ではないということである。そこには常に例外の可能性、つまり古いものが新しいものに勝る場合も存在しうるのだが、何でもかんでも懐古のパターンに当てはめてしまうとそうした例外が見えなくなってしまう。その点に気を付けたほうがいいだろう。

 

 


2019.04.07

徹底比較 3D対2D

 今回は、ゲームにおける3Dと2Dグラフィックの、それぞれの長所と短所を比較してみたいと思います。ここで何より示したいのは、3Dと2Dの両者にはそれなりの長所があり、決して2Dは3Dに比べて原始的だとか、劣っているというわけではないということです。

 筆者が重視する、ゲームを芸術作品としてとらえる視点では、何よりも取り除くべきは古いものが劣っていて、新しいものが優れているという考え方です。2D3D論争もまさにその一例として取り上げられやすいので、今回じっくりと考えてみることにします。

 

3Dゲームがいかに広まったか

 3Dと2Dを比較するにあたって、まずは3Dの登場について簡単に見ていこう。それまでにも3Dのゲームはぽつぽつあったが、第5世代ハードつまりPS、SS、N64の時代になると次々と3Dゲームが現れ、そのグラフィックは驚きをもって迎えられた。この状況を見るといかにも3Dが本質的に優れているから広まったように思えるが、実態は少し異なると考えている。この時期の革新的なゲーム、FF7やマリオ64やバーチャファイター(や個人的にはジャンピングフラッシュ)は、3Dの強みを最大限に活用したからこそ好評を博したのである。まずはFFを考えてみよう。大容量ディスクメディアになったためにムービーをたっぷり収録できたというのは別の要因なので除くと、6との最大の差は戦闘シーンであり、キャラクターがポリゴンモデルになったために滑らかに動くようになった点が大きい。それまで敵は戦闘中微動だにしないか、ユミールみたいに数パターンのアニメをする程度だったのが、過剰なまでに動き回るようになった。

 そして、3Dの強みを最大限生かせたのはやはりアクションゲームだろう。2Dと3Dの根本的な差は、後者が空間上に物を配置し、カメラで撮影するという描画方式になっている点にある。そしてこのカメラを動かすことにより、これまでほぼなかった(もちろん描画が2Dでもソルスティスのように3D空間は作れるが、カメラは動かせない)タイプのアクションゲームが生まれた。マリオ64のような箱庭型アクションが典型例であり、格闘ゲームであれば奥行きをつけることができた。このカメラの要素はRPGにも活かすことができ、各シーンでアングルを切り替えることにより映画的な映像が可能となり、見下ろし画面での単調なお芝居から脱却できたわけだ。

 しかし、あらゆるゲームが3Dの恩恵を存分に受けたわけではない。たとえばDQ7は、「マップ内でカメラを回せること」を最大の新要素としてウリにしており、確かにこれによって建物の裏などが探索できるようになったが、その要素がドラクエとしてどうしても必要かと言われればそうでもないだろう。一方で戦闘シーンは、多少視点が変わるものの味方キャラは表示されず敵は2Dという過渡期的な状態だった。戦闘が完全3Dとなるのは8からとなる。

 

3Dの長所:滑らかな動きと視点変更

 ここまででわかる3Dの長所をまとめてみよう。最大の長所は、3Dモデルを使った滑らかな動きが表現できることだろう。2Dドット絵でキャラを常時アニメーションさせるのは並大抵のことではないので(もちろんヘラクレス4やルドラなどそれをやったRPGもあるが)、このことは結果的に労力の削減にもつながる。

 もう一つの利点は、カメラを動かせることである。これにより空間が立体的に使えるようになるし、映像表現にも幅が生まれる。こうした長所はゲームの可能性を広げることに貢献し、その後のゲームを大いに発展させたといえるだろう。

 この2点は一言で言うならば、3Dは2Dよりも「リアル」だということである。これだけ聞くとだったらやっぱり3Dのほうがいいじゃないかと思うかもしれないが、芸術においては必ずしもリアルつまり現実に近いものが優れているとはいえない。実際に、PS時代の3Dブームにはその後ある程度歯止めがかけられるようになった。

 

3D化がうまくいかなかった例

 実例を挙げてみよう。たとえばカービィである。カービィ64と3DSのカービィを比較するならば、どちらも3Dだが昔の64のほうがよりカメラが動いている。これはつまり、カービィ64ではせっかく3Dを導入したということで視点を動かしてみたのだが、結局あまり意味はなかったのでその後固定カメラに戻ったということである。同じことが格ゲーにも言える。その後奥行きのある格ゲーとない格ゲーどちらが流行ったかと言われれば、答えは明らかだろう。これらの事例を見る限り、どうやら固定カメラであることの利点もそれなりに存在するようだ。それはおそらく、視点変更で見えにくくならない(対戦者双方の平等が必要な格ゲーでこれは大きいだろう)とか、移動できるところとそうでないところがわかりやすいなどだろう。

 さらに、現在に至るまでどうしても3Dと相性の悪いシリーズもある。それはスパロボである。DC版αやGC、NEOなど3Dスパロボもあるにはあるが、結局のところ定着しなかった。それは何より、スパロボが目指しているものがほとんどが2Dのアニメであり、3Dにする必然性がないというのもあるだろうが、それ以外にも、2Dでしか表現できないものがあるのだろう。これこそが3Dが「リアル」であることの弊害である。

 

3Dの短所:強調と省略が苦手

 3Dの短所、それは3Dが「リアル」であることそのものにある。リアルであるというのは、現実のルールに従わなければいけないということである。手を上げ下ろしするのも必ずすべての点を通らなければならず、2Dアニメのように「中抜き」で済ませられないのだ。そして同様に、漫画でおなじみの強調表現が3Dではできない。あえてパースを狂わすことで迫力を出す表現もそうだし、スピード感を出すために手足を複数描くことや、当たり前の流線ですら存在しない。もちろんこの問題点には気づかれていないわけではなく、漫画的な3D表現のゲームでは2つのモデルを重ねるなどして、そうした表現を可能としているものもある。

 どうにも対策しようがないのは、「省略したいものを省略できない」点である。RPGでは相手を殴ったら歩いて戻らないといけないし、次のポーズに一瞬で移ったら不自然になる。その結果として、全体的なテンポが遅くなり、「もっさり」するのである。この差は、元のDQ7と完全3Dとなったリメイク版を比べてみればわかるだろう。テンポ問題は「高速モード」を導入することによって対策が取られているものもあるが、単なる早回しと適切に省略された表現とでは、どうしても差は出てくる。

 「現実の法則から逃れられない」という短所は、物理エンジンの導入でさらに顕著になる。なにせこれ自体が世界を物理法則で縛るものであって、意図的に逸脱させない限りは一切の省略がなされないゆえにテンポ感は最悪となる。

 

3Dにする必然性があるかどうかが重要

 ここまで述べたところでわかるのは、3Dにするか2Dにするかは両者の強みをよく考えたうえで選択すべきことであって、無条件で3Dにすべきものではないということである。3Dにしかできない表現は多く、かつ3Dの欠点はある程度は対策することができる。問題なのは、特に必然性もなく3Dを選択しているゲームである。この類は、2Dゲームの3Dリメイクに一番よく見られる。2Dで最適化されたマップをそのまま使い回した場合は、たとえ視点が変えられても特に意味のあるものは見えず、まさにそれは必然性のない3Dとなる。同様にイベントシーンも、カメラやキャラの動きを特に工夫しないのであれば3Dの利点は消え、ただテンポが悪いだけの内容となる。この場合問題なのは、なんとなく3Dの方が優れているあるいは先進的と思ってそちらを選択したことと、その際に工夫を怠ったことである。3Dと2Dのどちらかが根本的に悪いわけではない。

 これは3Dにしないほうが良かった例なので、バランスを取るために3Dにしたほうがよいと思う例も挙げてみよう。真っ先に思い浮かぶのが、ポケモン不思議のダンジョンシリーズである。このシリーズはDSまでは2Dドット絵を採用しているが、これがとんでもない状況を招いていた。このシリーズに限らずローグライクは8方向に移動できるのだが、そのせいで縦横斜めの8種類のグラフィックが必要になるのだ。それぞれに攻撃モーションやダメージモーションを作ると手間は8倍で、おまけに時・闇・空の探検隊は第4世代までの500対近くのポケモンすべてがキャラとして登場するので、その作業量はすさまじいことになったはずである。この作品がその困難を根性で乗り越え、すべてにドット絵を用意したのは素晴らしいわけだが、さすがに3Dにして作業量を減らしても良かったのではと思えてくる。このように、細かいグラフィックの差分を用意できるのが3Dの強みといえる

 

まとめ

 ここまでの内容をまとめると、

  • 2Dに対する3Dの強みはモデルがあれば多彩かつ滑らかな表現ができる点と、カメラを自在に動かせる点
  • 3Dの欠点は実際以上の強調表現が苦手な点と、省略ができずテンポが悪くなる点
  • ただし、2Dも3Dも工夫次第で欠点は克服できる

ということである。ここで言う工夫とは、2Dの細かなモーションを表現できない点は大量にアニメパターンを用意することで克服でき、3Dの強調・省略の欠点は単なるリアルにせず、メリハリをつけることで対策できるということである。そのような工夫の凝らされたゲームなら2Dと3Dのどちらを選ぼうと素晴らしいわけだが、その欠点を理解しないままなんとなく使うと悪い点が前面に出てしまう。この点をよく考慮して、ゲーム内容に合わせたグラフィック表現を選んでもらいたいものである。

 


2019.02.17

キャラゲーからFFへ……中里氏とコブラチームの道のり

 前回は、いわゆるコブラジョジョを作った中里尚義氏のインタビューを掲載しましたが、彼のその後の経歴は調べてみるとかなり面白いことが判明しました。キャラゲーが意外なゲームと結びついていることがわかったのです。今回はその中里氏を中心に、コブラチームがその後どうなったかについて調べてみました。

 

用いた資料

 調べるにあたって参考にしたのは、前回のVジャンプ1992年12月30日号と、スクウェアスタッフの繋がりを徹底的に調べておられるSubeakiさんのページ「スクウェア大事典」、そして昨年発売された書籍『ゲームドット絵の匠 ピクセルアートのプロフェッショナルたち』(ホーム社)。この書籍には中里氏と、トーセからバンダイに移った田中庸介氏、さらには橋本名人こと橋本真司氏へのインタビューが収録されており、バンダイのキャラゲー作りやコブラチームについて豊富な情報を伝えてくれる。これらを以下で参照する時は、それぞれ「Vジャンプ」「大事典」「ピクセル」と略す。

 

ファミコン期

 中里氏はD&Dというデザイン事務所に入り、バンダイはそのクライアントの一つだった。パソコンRX-78のグラフィック制作などを経て、「オバケのQ太郎ワンワンパニック」ではじめてファミコンに関わる。本作は開発はトーセだが、D&Dは企画とデザインを担当していた(ピクセル)。その後中里氏はドラゴンボールシリーズすべてとまじかる☆タルるートくん、聖闘士星矢、ファミコンジャンプなどを担当(Vジャンプ)。このうちドラゴンボールの数本で、スタッフロールに「D&D CORP.」とあるのが確認されている(それ以外のゲームはD&Dや中里氏の記載なし)。バンダイのファミコンキャラゲーの制作元はほとんどがトーセとされているが、同時にD&Dも多くの部分に関わっているようだ。書籍の対談で語られている内容によると、最初にD&Dが企画とデザインを行い、その後トーセでデザインの修正をしつつプログラムを行っていたと言われている。これは今まで知られていなかったことである。

 この際の担当は第一にグラフィックで、中里氏は田中氏とともにバンダイの多くのキャラゲーのドット絵を描いている。また当時は役割分担があまりなく、ファミコンジャンプでは中里氏が企画、デザイン、指示と多くの役割をこなしている。

 

コブラチームの立ち上げ

 中里氏はSFCの「ドラゴンボール 超サイヤ伝説」を作った後、1991年に橋本真司氏(橋本名人)とともに株式会社コブラチームを立ち上げた(ピクセル)。橋本氏はバンダイで(開発部にもかかわらず)ファミコンゲームのプロモーションを担当していた人物で、雑誌などでの宣伝に加えファミコンジャンプのプロデュースを行っていた。バンダイの「ポケットザウルス 十王剣の謎」には橋本名人が主人公として登場している。

 コブラチームの代表作はなんと言ってもSFCの「ジョジョの奇妙な冒険」であるが(その制作の様子については前回のインタビューを参照)、本作のプログラムやサウンド、グラフィックはウィンキーソフトが請け負っており、コブラチームの担当は主にゲームデザインやプロデュースのようだ。他にはSFCの「サンダーバード 国際救助隊出撃せよ!」、「バスタード 暗黒の破壊神」およびACのドラゴンボール2作を発売しているが、1994年以後のソフトが存在しないので、トップの移籍に伴い解散したと思われる(大事典)。

 中里氏も橋本氏もコブラチーム時代のことについては多くを語っていないが、橋本氏はコブラチームの社長、中里氏はコブラチームの開発責任者だったようである(Vジャンプ)。

 

スクウェアへの吸収

 1994年に中里氏はスクウェアの坂口博信氏に声をかけられ、スクウェアに移籍することになる(ピクセル)。この出来事は実際はスクウェアによるコブラチームの買収だったようだ(下記参照)。中里氏はプランナーとしてスクウェア(正確にはソリッド)に入り、最初に関わった作品が1995年のフロントミッションである。橋本氏は書籍ではクロノトリガーのプロデュースを担当と書かれているが、スタッフロールにはスペシャルサンクスとしての記載しかない。フロントミッションではプロデューサーで記載されている(大事典)。

 追記:Subeaki氏の情報提供によると、コブラチームは1994年1月にスクウェアに買収され、100%子会社となったことが判明した。その際にコブラチームは「ソリッド」に名称を変更している。ソースは1999年度の有価証券報告書。この資料によると、ソリッドは「ゲームソフト開発の外注管理」を担当している。確かにガンハザードのスタッフロールには中里氏の名前の後に「SOLID」と記載されており、その他外注を行っているブシドーブレードや双界儀、サイバーオーグのスタッフロールにソリッドの名前があるので、外注管理とはこうした仕事を指していると思われる。同社はエニックスとの合併の際に非連結子会社となり、2008年にスクウェア・エニックス・ホールディングスに移行する際に姿を消している。コブラチームはある時期から突然姿を消すが、実際はスクウェアに買収されていたのである。

 その後中里氏はFF7、8、10、13、15と本流FFシリーズの多くにプランナーとして関わっている(大事典)。現在はFF15を手がけたスタッフがスクエニ内で発足させた株式会社Luminous Productionsに在籍。橋本氏は多数のスクウェア・スクエニ作品のプロデュースを担当しており、現在は第3ビジネスディビジョンのディビジョンエグゼクティブの地位にいる。

 

コブラチームとは何だったのか

 今回の情報からわかるのは、コブラチームはバンダイのスタッフが独立してできた「小バンダイ」だったということである。そのメンバーには中里氏などゲーム制作を行える人物もいるが、どちらかと言うとパブリッシャーの役割を果たしていることが、各作品でさらに下請けに開発を頼んでいることからわかる。つまりバンダイがやっていたのと同様に、原作を選び著作権などの交渉を行い、ゲームデザインのアイデアを出して開発会社に指示するという活動を行っていたのがコブラチームなようだ。この点は、キャラゲー制作に長けたスタッフをそろえていたのでまさに強みだったといえる。

 しかしその活動はわずか2年で中断し、多くのスタッフがスクウェアに移籍することになった。ドラゴンボールなどのキャラゲーの血が、そしてコブラジョジョの血が、なんとFFに流れていることがわかったのである。これはゲーム史上の奇妙な事実と言う他ない。このことを考えると、コブラジョジョを見る時もなんとも微妙な気持ちになってくるものである。