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2019.04.14

ゲームの用語事典:「懐古」

 概念に新たな名前を与え、その概念を認識できるようにするということは、新物質の発見にも似た重要なプロセスです。ただしそれは科学研究の場合と違って、日常的にも行われているので、そこには問題や混乱が生じることになります。今回は、そうしたゲーム関係の概念の一つを詳しく検討してみましょう。


 今回扱うのもそのような概念の一つ「懐古」である。この言葉はもちろんそれまでにも存在していたが、ある時からとりわけネット上で、特定の人々を指す言葉になった。使い方はたとえばこんな感じである。

 

(何か古いゲームの話題や映像が出る)
「この頃のゲームは良かった。最近のゲームにはこういうのがない」
「また懐古厨か」
「これだから懐古は」

 

あるいは最近ではこの言葉の広がりを意識して、

「懐古って言われるかもしれないけど、(古いゲーム)が好きなんだ」

という懐古の否定的な意味合いを踏まえての発言も見られる。

 

こうした用例からは、「懐古」が悪いもので、「懐古厨」はそういった人々を一くくりにしてやっつけるためのワードとして機能していることがわかるだろう。また、その逆の「新しいものをやたらともてはやす人」に対する名前がないのも(一応「新規厨」という言い方はあるようだがあまり見ない)、何か非対称を感じさせる。

 このような状況に対して言いたいのは、確かに懐古には悪い部分があり、それをもって攻撃することにも正当性はあるのだが、あまりにこの見方が広まると、あらゆる「古いものを良いとする人」に対しても安易に懐古と言って否定するようになり、それも問題だということである。

 

悪い懐古とはどのようなものか

 ではまず、批判されるべき「悪い懐古」について見てみよう。先ほどの例でわかるのは、「昔のゲームが面白いとすること」が、「最近のゲームがつまらないと言うこと」につながっているという話の流れである。これは明らかに問題であって、まず誰も話題にしてないのに突然「最近のゲーム」との比較をしだすというのもあるし、「最近のゲーム」があまりにあいまいで、何と比較しているのかもわからない。これでは「この人は新しいものであれば何だって否定してるんだな」と思われてもおかしくない。

 これは比較対象の一方を一緒くたにしているので問題があるわけだが、対象がはっきりしていても叩かれる場合がある。ニコニコ大百科の「懐古厨」の記事には典型的な懐古の例が載っているが、その一つ「FFは◯作目までが神。〇作目以降はゆとり仕様」というのは、少なくともFFに対象を絞っていることはわかる。正直に言うと、筆者も以前まさにこのような考えに陥っていた。FF7が出た頃に初めてFF3をプレイしてその出来に感動し、「FFは3が頂点。6以降はダメになった」と思っていたことがあった。その偏見が打破されるには、もう少し幅広くゲームをプレイし、視野が広くなる必要があった。現在では、3も6もそれ以降もそれぞれ良いところがあり、単純に優劣をつけられるものではないと思っているが、思い返してみるとこの見方にはある考えが前提とされている。

 その考えとは、「新しいものになるにしたがって悪くなるだろうという時代法則」であり、これがすべての悪い懐古の元凶といえる。「懐古の法則」とでも呼べばいいだろうか。これが頭の中にあると、新しいものであれば何でも否定するという見方につながるのである。

 

思い出補正と先行者利益

 懐古の人々にとっての悪いニュースはこれだけではない。別の普及している概念として、「思い出補正」というものがある。これは昔のゲーム体験は自然と良いものとして残りやすいということで、悪いものでなく良いものを選り好みする記憶能力の傾向性をこう呼んでいるものと思われる。だが、ここには別の原因があると考えている。それは先行者利益とでも言うべきもので、この場合は人々の記憶に最初に入ってくるゲームが先行者となる。つまり「最初にやったゲームは何だって面白い」ということである。これは誰しも身に覚えのあることだろう。子供の頃は今考えるととんでもないゲームを面白がってプレイしていたという話はよく聞く。それは比較の対象がないためであり、「前やった~に比べるとこれは面白くない」と思わないからである。こうして、古いゲームは面白く思えるような傾向性が存在しているのだ。

 この他にも、「ユーザーが成長したから」ということもよく言われる。たとえば「最近のゲームが面白くないのは、あなたが楽しめてないだけでしょ」という言い方がされ、それは普遍的につまらないわけではないとして懐古が否定されるのだ。

 

懐古批判も行き過ぎると・・・

 こうして「悪い懐古」の発生要因が明らかになり、それは偏った考えだという見方が普及するのはいいことである。しかし、この懐古対策が進みすぎると、それはそれで問題が発生する。その最たるものは「現につまらないゲームが出てきた時に、その指摘が懐古と言って片付けられてしまう」ことである。まず前提として、いつの時代であろうとダメなゲームはある。そしてそのダメなゲームがシリーズ作品だった時に特にこれが起こりやすい。つまりなんとかの続編に対して、今作はダメだと言った時に、これまでの懐古探しで使われてきたパターンが適用され、それは思い出補正だとか、楽しんでいる人もいるんですよとか言われることになる。しかしこうした批判も万能ではない。思い出補正というのは、古いほうの対象が「思い出の中」にある場合にしか通用しない。これに対しては、今両方をプレイしてみて、その上で判断すればその補正はなくなる。また後者に関してはまさに先ほどの先行者利益で、前作をよく知らないから続編が面白く見えるだけだとも言えるだろう。

こうした見方が極端になるとどうなるか。続編が前作より良いことが絶対となり、それは先ほどの懐古の法則とは真逆の、「新しいものになるにしたがって良くなるだろうという時代法則」を押し付けていることになる。新しいものがすなわち悪いものと考えることが問題なのであれば、その逆もまた問題である。つまり時代の流れに安易にパターンを見つけるのが良くないわけだ。

このような行き過ぎた懐古批判もよく広まっている。目安として、古いものを持ち上げただけで懐古と言い出すのは行き過ぎである。そのような人の頭の中では「新しいものになるにしたがって良くなるだろうという時代法則」が前提とされているのが読み取れるわけであり、これに対してはなぜ新しいものは無条件で良いものになるんですか?と返せばいい。

 

結論:正しい判断のために

 だとしたら、どのように判断するのがいいのか。常識的な話だが、比較する際は偏見を取り払って、両者をより細かく見ていくことである。そして受け取る側は、たとえ昔のゲームが良かったと言っている人がいても、その内容をよく見て悪い懐古でないならば、簡単には否定しないことである。具体的には、比較対象があいまいでないかどうか(最近の~と言ってないかどうか)、両者のことをよく知った上でその結論を出しているかを検討すればいいわけだ。たとえ懐古だと言われたとしても、この2点がしっかりしているのであれば恐れることはない。相手は単なるレッテル貼りを行っているだけである。

 結局のところ、懐古という概念は人間の考え方の傾向性を抽出した便利な批判の道具なのだが、万能ではないということである。そこには常に例外の可能性、つまり古いものが新しいものに勝る場合も存在しうるのだが、何でもかんでも懐古のパターンに当てはめてしまうとそうした例外が見えなくなってしまう。その点に気を付けたほうがいいだろう。

 

 


2019.04.07

徹底比較 3D対2D

 今回は、ゲームにおける3Dと2Dグラフィックの、それぞれの長所と短所を比較してみたいと思います。ここで何より示したいのは、3Dと2Dの両者にはそれなりの長所があり、決して2Dは3Dに比べて原始的だとか、劣っているというわけではないということです。

 筆者が重視する、ゲームを芸術作品としてとらえる視点では、何よりも取り除くべきは古いものが劣っていて、新しいものが優れているという考え方です。2D3D論争もまさにその一例として取り上げられやすいので、今回じっくりと考えてみることにします。

 

3Dゲームがいかに広まったか

 3Dと2Dを比較するにあたって、まずは3Dの登場について簡単に見ていこう。それまでにも3Dのゲームはぽつぽつあったが、第5世代ハードつまりPS、SS、N64の時代になると次々と3Dゲームが現れ、そのグラフィックは驚きをもって迎えられた。この状況を見るといかにも3Dが本質的に優れているから広まったように思えるが、実態は少し異なると考えている。この時期の革新的なゲーム、FF7やマリオ64やバーチャファイター(や個人的にはジャンピングフラッシュ)は、3Dの強みを最大限に活用したからこそ好評を博したのである。まずはFFを考えてみよう。大容量ディスクメディアになったためにムービーをたっぷり収録できたというのは別の要因なので除くと、6との最大の差は戦闘シーンであり、キャラクターがポリゴンモデルになったために滑らかに動くようになった点が大きい。それまで敵は戦闘中微動だにしないか、ユミールみたいに数パターンのアニメをする程度だったのが、過剰なまでに動き回るようになった。

 そして、3Dの強みを最大限生かせたのはやはりアクションゲームだろう。2Dと3Dの根本的な差は、後者が空間上に物を配置し、カメラで撮影するという描画方式になっている点にある。そしてこのカメラを動かすことにより、これまでほぼなかった(もちろん描画が2Dでもソルスティスのように3D空間は作れるが、カメラは動かせない)タイプのアクションゲームが生まれた。マリオ64のような箱庭型アクションが典型例であり、格闘ゲームであれば奥行きをつけることができた。このカメラの要素はRPGにも活かすことができ、各シーンでアングルを切り替えることにより映画的な映像が可能となり、見下ろし画面での単調なお芝居から脱却できたわけだ。

 しかし、あらゆるゲームが3Dの恩恵を存分に受けたわけではない。たとえばDQ7は、「マップ内でカメラを回せること」を最大の新要素としてウリにしており、確かにこれによって建物の裏などが探索できるようになったが、その要素がドラクエとしてどうしても必要かと言われればそうでもないだろう。一方で戦闘シーンは、多少視点が変わるものの味方キャラは表示されず敵は2Dという過渡期的な状態だった。戦闘が完全3Dとなるのは8からとなる。

 

3Dの長所:滑らかな動きと視点変更

 ここまででわかる3Dの長所をまとめてみよう。最大の長所は、3Dモデルを使った滑らかな動きが表現できることだろう。2Dドット絵でキャラを常時アニメーションさせるのは並大抵のことではないので(もちろんヘラクレス4やルドラなどそれをやったRPGもあるが)、このことは結果的に労力の削減にもつながる。

 もう一つの利点は、カメラを動かせることである。これにより空間が立体的に使えるようになるし、映像表現にも幅が生まれる。こうした長所はゲームの可能性を広げることに貢献し、その後のゲームを大いに発展させたといえるだろう。

 この2点は一言で言うならば、3Dは2Dよりも「リアル」だということである。これだけ聞くとだったらやっぱり3Dのほうがいいじゃないかと思うかもしれないが、芸術においては必ずしもリアルつまり現実に近いものが優れているとはいえない。実際に、PS時代の3Dブームにはその後ある程度歯止めがかけられるようになった。

 

3D化がうまくいかなかった例

 実例を挙げてみよう。たとえばカービィである。カービィ64と3DSのカービィを比較するならば、どちらも3Dだが昔の64のほうがよりカメラが動いている。これはつまり、カービィ64ではせっかく3Dを導入したということで視点を動かしてみたのだが、結局あまり意味はなかったのでその後固定カメラに戻ったということである。同じことが格ゲーにも言える。その後奥行きのある格ゲーとない格ゲーどちらが流行ったかと言われれば、答えは明らかだろう。これらの事例を見る限り、どうやら固定カメラであることの利点もそれなりに存在するようだ。それはおそらく、視点変更で見えにくくならない(対戦者双方の平等が必要な格ゲーでこれは大きいだろう)とか、移動できるところとそうでないところがわかりやすいなどだろう。

 さらに、現在に至るまでどうしても3Dと相性の悪いシリーズもある。それはスパロボである。DC版αやGC、NEOなど3Dスパロボもあるにはあるが、結局のところ定着しなかった。それは何より、スパロボが目指しているものがほとんどが2Dのアニメであり、3Dにする必然性がないというのもあるだろうが、それ以外にも、2Dでしか表現できないものがあるのだろう。これこそが3Dが「リアル」であることの弊害である。

 

3Dの短所:強調と省略が苦手

 3Dの短所、それは3Dが「リアル」であることそのものにある。リアルであるというのは、現実のルールに従わなければいけないということである。手を上げ下ろしするのも必ずすべての点を通らなければならず、2Dアニメのように「中抜き」で済ませられないのだ。そして同様に、漫画でおなじみの強調表現が3Dではできない。あえてパースを狂わすことで迫力を出す表現もそうだし、スピード感を出すために手足を複数描くことや、当たり前の流線ですら存在しない。もちろんこの問題点には気づかれていないわけではなく、漫画的な3D表現のゲームでは2つのモデルを重ねるなどして、そうした表現を可能としているものもある。

 どうにも対策しようがないのは、「省略したいものを省略できない」点である。RPGでは相手を殴ったら歩いて戻らないといけないし、次のポーズに一瞬で移ったら不自然になる。その結果として、全体的なテンポが遅くなり、「もっさり」するのである。この差は、元のDQ7と完全3Dとなったリメイク版を比べてみればわかるだろう。テンポ問題は「高速モード」を導入することによって対策が取られているものもあるが、単なる早回しと適切に省略された表現とでは、どうしても差は出てくる。

 「現実の法則から逃れられない」という短所は、物理エンジンの導入でさらに顕著になる。なにせこれ自体が世界を物理法則で縛るものであって、意図的に逸脱させない限りは一切の省略がなされないゆえにテンポ感は最悪となる。

 

3Dにする必然性があるかどうかが重要

 ここまで述べたところでわかるのは、3Dにするか2Dにするかは両者の強みをよく考えたうえで選択すべきことであって、無条件で3Dにすべきものではないということである。3Dにしかできない表現は多く、かつ3Dの欠点はある程度は対策することができる。問題なのは、特に必然性もなく3Dを選択しているゲームである。この類は、2Dゲームの3Dリメイクに一番よく見られる。2Dで最適化されたマップをそのまま使い回した場合は、たとえ視点が変えられても特に意味のあるものは見えず、まさにそれは必然性のない3Dとなる。同様にイベントシーンも、カメラやキャラの動きを特に工夫しないのであれば3Dの利点は消え、ただテンポが悪いだけの内容となる。この場合問題なのは、なんとなく3Dの方が優れているあるいは先進的と思ってそちらを選択したことと、その際に工夫を怠ったことである。3Dと2Dのどちらかが根本的に悪いわけではない。

 これは3Dにしないほうが良かった例なので、バランスを取るために3Dにしたほうがよいと思う例も挙げてみよう。真っ先に思い浮かぶのが、ポケモン不思議のダンジョンシリーズである。このシリーズはDSまでは2Dドット絵を採用しているが、これがとんでもない状況を招いていた。このシリーズに限らずローグライクは8方向に移動できるのだが、そのせいで縦横斜めの8種類のグラフィックが必要になるのだ。それぞれに攻撃モーションやダメージモーションを作ると手間は8倍で、おまけに時・闇・空の探検隊は第4世代までの500対近くのポケモンすべてがキャラとして登場するので、その作業量はすさまじいことになったはずである。この作品がその困難を根性で乗り越え、すべてにドット絵を用意したのは素晴らしいわけだが、さすがに3Dにして作業量を減らしても良かったのではと思えてくる。このように、細かいグラフィックの差分を用意できるのが3Dの強みといえる

 

まとめ

 ここまでの内容をまとめると、

  • 2Dに対する3Dの強みはモデルがあれば多彩かつ滑らかな表現ができる点と、カメラを自在に動かせる点
  • 3Dの欠点は実際以上の強調表現が苦手な点と、省略ができずテンポが悪くなる点
  • ただし、2Dも3Dも工夫次第で欠点は克服できる

ということである。ここで言う工夫とは、2Dの細かなモーションを表現できない点は大量にアニメパターンを用意することで克服でき、3Dの強調・省略の欠点は単なるリアルにせず、メリハリをつけることで対策できるということである。そのような工夫の凝らされたゲームなら2Dと3Dのどちらを選ぼうと素晴らしいわけだが、その欠点を理解しないままなんとなく使うと悪い点が前面に出てしまう。この点をよく考慮して、ゲーム内容に合わせたグラフィック表現を選んでもらいたいものである。

 


2019.02.17

キャラゲーからFFへ……中里氏とコブラチームの道のり

 前回は、いわゆるコブラジョジョを作った中里尚義氏のインタビューを掲載しましたが、彼のその後の経歴は調べてみるとかなり面白いことが判明しました。キャラゲーが意外なゲームと結びついていることがわかったのです。今回はその中里氏を中心に、コブラチームがその後どうなったかについて調べてみました。

 

用いた資料

 調べるにあたって参考にしたのは、前回のVジャンプ1992年12月30日号と、スクウェアスタッフの繋がりを徹底的に調べておられるSubeakiさんのページ「スクウェア大事典」、そして昨年発売された書籍『ゲームドット絵の匠 ピクセルアートのプロフェッショナルたち』(ホーム社)。この書籍には中里氏と、トーセからバンダイに移った田中庸介氏、さらには橋本名人こと橋本真司氏へのインタビューが収録されており、バンダイのキャラゲー作りやコブラチームについて豊富な情報を伝えてくれる。これらを以下で参照する時は、それぞれ「Vジャンプ」「大事典」「ピクセル」と略す。

 

ファミコン期

 中里氏はD&Dというデザイン事務所に入り、バンダイはそのクライアントの一つだった。パソコンRX-78のグラフィック制作などを経て、「オバケのQ太郎ワンワンパニック」ではじめてファミコンに関わる。本作は開発はトーセだが、D&Dは企画とデザインを担当していた(ピクセル)。その後中里氏はドラゴンボールシリーズすべてとまじかる☆タルるートくん、聖闘士星矢、ファミコンジャンプなどを担当(Vジャンプ)。このうちドラゴンボールの数本で、スタッフロールに「D&D CORP.」とあるのが確認されている(それ以外のゲームはD&Dや中里氏の記載なし)。バンダイのファミコンキャラゲーの制作元はほとんどがトーセとされているが、同時にD&Dも多くの部分に関わっているようだ。書籍の対談で語られている内容によると、最初にD&Dが企画とデザインを行い、その後トーセでデザインの修正をしつつプログラムを行っていたと言われている。これは今まで知られていなかったことである。

 この際の担当は第一にグラフィックで、中里氏は田中氏とともにバンダイの多くのキャラゲーのドット絵を描いている。また当時は役割分担があまりなく、ファミコンジャンプでは中里氏が企画、デザイン、指示と多くの役割をこなしている。

 

コブラチームの立ち上げ

 中里氏はSFCの「ドラゴンボール 超サイヤ伝説」を作った後、1991年に橋本真司氏(橋本名人)とともに株式会社コブラチームを立ち上げた(ピクセル)。橋本氏はバンダイで(開発部にもかかわらず)ファミコンゲームのプロモーションを担当していた人物で、雑誌などでの宣伝に加えファミコンジャンプのプロデュースを行っていた。バンダイの「ポケットザウルス 十王剣の謎」には橋本名人が主人公として登場している。

 コブラチームの代表作はなんと言ってもSFCの「ジョジョの奇妙な冒険」であるが(その制作の様子については前回のインタビューを参照)、本作のプログラムやサウンド、グラフィックはウィンキーソフトが請け負っており、コブラチームの担当は主にゲームデザインやプロデュースのようだ。他にはSFCの「サンダーバード 国際救助隊出撃せよ!」、「バスタード 暗黒の破壊神」およびACのドラゴンボール2作を発売しているが、1994年以後のソフトが存在しないので、トップの移籍に伴い解散したと思われる(大事典)。

 中里氏も橋本氏もコブラチーム時代のことについては多くを語っていないが、橋本氏はコブラチームの社長、中里氏はコブラチームの開発責任者だったようである(Vジャンプ)。

 

スクウェアへの吸収

 1994年に中里氏はスクウェアの坂口博信氏に声をかけられ、スクウェアに移籍することになる(ピクセル)。この出来事は実際はスクウェアによるコブラチームの買収だったようだ(下記参照)。中里氏はプランナーとしてスクウェア(正確にはソリッド)に入り、最初に関わった作品が1995年のフロントミッションである。橋本氏は書籍ではクロノトリガーのプロデュースを担当と書かれているが、スタッフロールにはスペシャルサンクスとしての記載しかない。フロントミッションではプロデューサーで記載されている(大事典)。

 追記:Subeaki氏の情報提供によると、コブラチームは1994年1月にスクウェアに買収され、100%子会社となったことが判明した。その際にコブラチームは「ソリッド」に名称を変更している。ソースは1999年度の有価証券報告書。この資料によると、ソリッドは「ゲームソフト開発の外注管理」を担当している。確かにガンハザードのスタッフロールには中里氏の名前の後に「SOLID」と記載されており、その他外注を行っているブシドーブレードや双界儀、サイバーオーグのスタッフロールにソリッドの名前があるので、外注管理とはこうした仕事を指していると思われる。同社はエニックスとの合併の際に非連結子会社となり、2008年にスクウェア・エニックス・ホールディングスに移行する際に姿を消している。コブラチームはある時期から突然姿を消すが、実際はスクウェアに買収されていたのである。

 その後中里氏はFF7、8、10、13、15と本流FFシリーズの多くにプランナーとして関わっている(大事典)。現在はFF15を手がけたスタッフがスクエニ内で発足させた株式会社Luminous Productionsに在籍。橋本氏は多数のスクウェア・スクエニ作品のプロデュースを担当しており、現在は第3ビジネスディビジョンのディビジョンエグゼクティブの地位にいる。

 

コブラチームとは何だったのか

 今回の情報からわかるのは、コブラチームはバンダイのスタッフが独立してできた「小バンダイ」だったということである。そのメンバーには中里氏などゲーム制作を行える人物もいるが、どちらかと言うとパブリッシャーの役割を果たしていることが、各作品でさらに下請けに開発を頼んでいることからわかる。つまりバンダイがやっていたのと同様に、原作を選び著作権などの交渉を行い、ゲームデザインのアイデアを出して開発会社に指示するという活動を行っていたのがコブラチームなようだ。この点は、キャラゲー制作に長けたスタッフをそろえていたのでまさに強みだったといえる。

 しかしその活動はわずか2年で中断し、多くのスタッフがスクウェアに移籍することになった。ドラゴンボールなどのキャラゲーの血が、そしてコブラジョジョの血が、なんとFFに流れていることがわかったのである。これはゲーム史上の奇妙な事実と言う他ない。このことを考えると、コブラジョジョを見る時もなんとも微妙な気持ちになってくるものである。

 


2019.02.16

コブラジョジョの「仕掛け人」へのインタビュー

 前回前々回とキャラゲーについていろいろ調べていて、ふと手元の資料を見たら実にちょうどいいインタビューがありました。
 それは、問題作として名高いコブラチーム制作の「ジョジョの奇妙な冒険(SFC)」の開発者インタビューです。おまけにここでインタビューされている人は、それ以前の数々のキャラゲーに関わっていたということもわかりました。
 あのとんでもないゲームは何を意図して作ったのか?全国十万人のコブラジョジョファン[要出典]待望の新事実が今、明らかになります。

 今回紹介するのは、Vジャンプ1992年12月30日号(特別編集増刊)である。158-163ページにかけて、SFCの「ジョジョの奇妙な冒険」の開発責任者、中里尚義氏のインタビューが載っている。4節に分かれている内容を、要約と引用によって解説してみよう。

jojo1.jpg

ジョジョだけの未体験3大システム!!(p.160)

要約:本作のウリは、シネスコサイズ画面、バイオリズムを使ったパラメーター設定、状況に合わせて変化するキャラの表情の3つ。そしてその背景には一つのテーマがあるという。


そのテーマは、題材にしているキャラをいかに本物のイメージ通りゲーム中で個性づけをするかということ。


これがどう先ほどの3つに関係するかというと、ジョジョのキャラクターは表情豊かなので、表情がわかるようキャラを大きくするためにシネスコサイズ画面にした、ジョジョでは心理的に相手を追い詰める戦い方をするので、「プレイヤーに心理的な圧迫を感じながらスリルある戦いをしてもらおうと」バイオリズムという設定を作ったらしい。

コメント:実際のゲーム内容を考えると、まさか原作を再現するつもりがあったんだ・・・というところでびっくりするかもしれない。しかしよく考えてみれば、ここで話しているのはグラフィックについてであって、ストーリーのことはない。シネスコ画面というのはつまりドラクエのような見下ろし視点のRPGにしないということであり、この工夫は効果的に発揮され迫力のあるグラフィックとなっている。しかし、心理戦の多い原作を生かすためにバイオリズムを入れたというのはよくわからない。これは攻撃力などのパラメーターが変動するもので、アイテムで調整できたりトイレで上昇したりするが、戦闘中にどうこうできるものではない。むしろ心理戦という要素は戦闘中の「話す」「調べる」で表現されているように思えるが、システムとして生かされているとは言いがたいし、悪口を言って戦意喪失させるというのはちっとも原作通りではないだろう。

アニメーションの世界へプレイヤーも入り込めるゲーム!!(p.161)

要約:シネスコサイズ画面を採用して、映画的な表現ができるようになった。カメラの視点を変えてさらにダイナミックな表現を入れたかったが実現しなかった。一方でバトルシーンのウリは、

このゲームのメインは、承太郎たちなので、彼らがどうやって敵と戦っているのか見ることができる点ですね。敵キャラからの攻撃だけでなく、敵キャラをやっつける承太郎たちの映像もしっかりフォローしているんですよ。長い間キャラクターゲームを作り続けたこだわりですね

コメント:本作のグラフィック面に関しては、意図した通りに表現できているように思われる。中里氏の言う通り、味方側のグラフィックが映るというのはこの視点(ドラクエタイプ)のRPGの場合画期的なことで、ドラクエでも実現したのは相当後の話である。だが戦闘中の問題はここではなく、触れられていない部分つまりボイスにあるのだが。

物語を知っていても、知らなくても楽しめるソフト!!(p.162)

 原作ストーリーの反映させ方について、重要な箇所なのでそのまま表記。

jojo3.jpg

(原作との兼ね合いは)いつもキャラクターものをやるときジレンマとして残ります。ようするにゲームとして遊べるものを重視するのか、ジョジョというキャラが大好きなファンを裏切らないものにするのか、2通りありますよね。ゲームを追ってしまうと、ジョジョのキャラを使う意味があるのかと問いかけたくなるような作品になってしまう。以前ありましたよね、どんなキャラを使っても結果的にピョンピョン跳ねるだけのマリオ崩れみたいなやつ。逆に、ファン好みに作ったとします。すると少しでも本編と違う設定にしてしまうと、ファンの皆さんは、その時点で混乱してしまうんです。困ったものですねぇ。

ではこのどちらを選んだのかと問われて、

確かに本編の物語を知っている人のほうが、様々なイベントをこなしていくうえでいくぶんスムーズに進めることができるかもしれないけど、そこはまったく物語を知らない人でも無理なくテンポよくイベントをこなしていけるよう工夫しています。もちろん、本編に沿って物語の構成はしているものの、たまに敵キャラの出現場所が異なるなど、物語を知っている人にも新鮮な作りにしてあります。

コメント:ここにすべての答えがある。彼の述べていることに偽りはない。下線部に注目してほしい。「テンポよくイベントをこなしていけるように」飛行機内でデス13とハイプリエステスが襲ってくるのであり、ポルナレフが本屋にいるのも「たまに敵キャラの出現場所が異なる」と言っている通りである。要するに、あのストーリーは原作を適度に圧縮した結果ということである。それを適度と思うかどうかはともかく。

キャラクターゲームの鬼才が描く今後の展望っ!!(p.163)

 ここの内容が何より衝撃的だった。中里氏がこれまでの経歴を語っているのだが、その過程で数々のキャラゲーに関わっているのである。要約しよう。

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要約:中里氏はD&Dというゲーム会社にグラフィックデザイナーとして入社した。そこは人手不足で、氏はグラフィックに限らず企画やプロデュース、営業まで行い、年間30本のゲームを一人で作っていた。その後ファミコンソフト制作に携わったが、最初の作品が「オバケのQ太郎ワンワンパニック」。その後バンダイで15~16本のキャラゲーに関わった。その際も一人でほとんどすべての職種をこなしていた。
関わったタイトルは、ドラゴンボールシリーズのすべて、タルるート、聖闘士星矢、ファミコンジャンプなど。その後バンダイから離れてコブラチームを作り、最初に制作したのがこのジョジョである。

コメント:まず注目すべきは、ここで「キャラクターゲーム」という言葉が使われている点である。キャラゲーという概念がどのくらい広まっているかは不明だったが、1992年の時点で業界人がすでにこの言葉を使っているところを見ると、結構昔からキャラゲーの概念は存在していたようだ。

その内容からは、中里氏はバンダイの数多くのキャラゲーに関わっていたことがわかる。ある意味、そのバンダイキャラゲーの集大成がこのコブラジョジョだということになるだろう。ただ、それらのゲームで氏がどの部分に関わっていたかは定かではない。確かなのは、このコブラジョジョには相当程度関与しているということである。本作のスタッフロールにはゲームデザイナーの肩書で名前が載っている。
中里氏の以前の仕事というのも気になるのでざっとチェックしてみたが、話に上った中で「ドラゴンボール大魔王復活」と「まじかる☆タルるートくん FANTASTIC WORLD!!」、ファミコンジャンプ1・2にはスタッフロールはあるが名前なし、「まじかる☆タルるートくん2まほうだいぼうけん」はスタッフロールがほぼ偽名なので判別できず、その他はスタッフロール自体がなかった。発見できたのが「ドラゴンボールZ 強襲!サイヤ人」と「ドラゴンボールZII 激神フリーザ」および「ドラゴンボールZ 超サイヤ伝説」で、「DESIGN OFFICE」に「D&D CORP.」と記されていた。本人が言っている以上嘘ということはないだろうが、名前を発見できないのは気がかりである。

全体の感想

 このインタビューから、中里氏がいろんな意図をこめてコブラジョジョを作っていたことがわかった。そしてその意図は、グラフィック面では効果的に実現していたが、システム面では今一つであり、ストーリー面はご覧の有様という感じである。この様子を見ると、グラフィックデザインの専門家が他も担当するのが間違いだったのではないかという気もしてくる。何にせよ、これでコブラジョジョの謎が一つ明かされたことは間違いないだろう。
 キャラゲーのプロという中里氏の経歴は興味深いので、もう少し追加調査を考えている。いくつか資料も発見できているので、近い内にお見せしよう。


2019.02.09

キャラゲーはなぜつまらないのか

 今回は、ファミコンのキャラゲーを徹底検証したデータを元に、キャラゲーはなぜつまらないものが多いのかについて考えてみようと思います。

 この内容は、ファミコンのキャラゲーの中でもっともヤバいものを決定する企画「ファミコンのキャラゲー最凶決定戦」を踏まえていますので、まずはそちらをご覧ください。

 前回は「面白いキャラゲーの条件とは」としてキャラゲーが面白くなる要因を探ってみましたが、今回はそうした面白いキャラゲーとも比較しながら、ダメなキャラゲーの特徴と原因について迫ってみます。

 まずはキャラゲーの定義から始めよう。前回と同様、「原作となる作品が存在するゲーム」をキャラゲーとみなすものとする。これだと芸能人・有名人が登場するゲームが省かれてしまうが、そちらもキャラゲーと呼ぶに値するものだろう。今回は決定戦に参戦する作品を絞るためにそれらは省いたが、それでも十分な分析ができるはずである。

 ただし気をつけてほしいのは、決定戦に出場した「ヤバいキャラゲー」はただのつまらないキャラゲーよりもインパクトにおいて勝るものであり、まったく同じ分類ではない。むしろ出場が叶わなかった次点のキャラゲーのほうがつまらないキャラゲーの特徴を備えているといえる。

 

キャラゲーの失敗要因の一般的な理解

 ウィキペディアには、「キャラクターゲーム」という項目が存在する。キャラゲーというのはしっかり確立された概念とは思わないので項目にできるのかと思うが、案の定「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です」がついている。

ともかくここにもキャラゲーはつまらないという話も書いてあるのでその理由を見てみると、「ロイヤリティが開発費を圧迫する」「開発期間が短い」「中身が悪くても売れると思っている」「原作の内容に依存しすぎて知らない人が楽しめない」「原作のイメージを保つため内容が制限される」「原作を踏まえていない」などとある。最初の3つは開発側の事情の話だが、検証が困難な上に実際何の出典もないので、物言いがつくのも仕方ないことである。

これらの理由は何となく納得がいくが、今回の決定戦を踏まえるとここで見落とされている大きな理由がいくつかあることがわかってくる。それについて以下に述べていこう。

 

理由その1:そもそもゲーム会社が作ってない

 おそらく最大の理由はこれである。キャラゲーの失敗要因を知りたいのであれば、まずはそうしたゲームを出したメーカーを調べるべきだったのだ。以下にそれぞれ最強(面白いほう)と最凶(つまらないほう)決定戦のエントリーおよび次点作品のメーカーを集計した結果を載せよう(1本しかないメーカーは除く)。

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 このグラフからわかるように、面白いほうはカプコンが筆頭で、バンダイ、バンプレスト、コナミと続くが、ヤバいほうは圧倒的なバンダイ率に加え、北斗の拳やもっともあぶない刑事を擁する東映動画タカラ東宝と並ぶ。この辺がヤバいキャラゲーの仕掛け人であることは間違いない。要するに、多くのつまらないキャラゲーはゲームメーカーでないところが作っていたのである。これはあくまで想像にすぎないが、「ゲーム」としてではなく「アニメ」や「おもちゃ」としてゲームを作っているメーカーからつまらないキャラゲーが生まれるのではないだろうか。

 メーカーについてもう少し細かく見てみると、そうした会社は自社ではゲームを作れないので、別の開発会社に外注することになる。バンダイの場合ほとんどがトーセと組んでおり、東映動画はショウエイシステムとマイクロニクス、タカラもやはりトーセである。外注が常に悪いわけではないが、面白いキャラゲーと比べても、その割合には明確な違いがある。

 とはいえ、おもちゃだから悪いとか、トーセが元凶だったとは一概には言えない部分もある。以下ではまた別の理由について考えてみよう。

 

理由その2:技術力の問題

 面白いキャラゲーとつまらないキャラゲーの間には、発売された時期の違いがあるように思われる。実際にそれぞれの発売年の平均を出してみると、最強は1988.8、最凶は1987.9となった。わずか1年の違いだが、全体としてつまらないキャラゲーのほうが面白いキャラゲーよりも初期に発売されているといえる。

 では早いと何が問題か。ファミコンのキャラゲーに限った話だが、次世代ハードと違って、ファミコンには前身ハードといえるものがほぼない。これは、どのメーカーも必然的に参入したばかりだということである。そうなると、技術もなければノウハウもない。ファミコンでのゲーム制作に慣れるのに数年の時間を要しただろう。その間にひどいゲームが出てくるのも仕方のないことかもしれない。

 そして、実際にファミコン後期にはキャラゲーの質は上がっていく。初期は散々だったバンダイとトーセのコンビも、1991年にはタルるートくんという良質なゲームを出している。その他、同時期にはいかにも子供だましっぽいサンリオのゲームも増えだすが、これが案外面白かったりする。まるっきり例外のキョロちゃんランドのようなアレもあるが。

 

理由その3:不適切なゲームジャンル

 時期の問題と関係してくるのが、キャラゲーのゲームジャンルの選択のまずさである。同じく2種類のグループのジャンルを集計してみよう。

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 一見してわかるように、面白いほうのジャンルが多様なのに対し、つまらないほうは4種類しかなく、アクションの割合がとりわけ大きい。これがおそらくキャラゲーの内容に関係している。タッチやバツ&テリーの例が示す通り、明らかにアクションに向いていない原作までアクションゲームにした結果、原作との関連性がメタメタになった作品も多いからである。他方でアドベンチャーというのは結構な安全牌で、両決定戦には出てこなかったがおそ松くんや少年アシベ、ひょっこりひょうたん島などアドベンチャーにすることでバトルものでなくても原作の雰囲気を出しつつゲーム化に成功した例も結構ある。

 ではなぜ安易にアクションやRPGを選んでしまったか。1つは初期には前例も少なく、他に選択肢がなかったためであろう。もう1つはスーパーマリオブームとドラクエブームのせいである。86年ごろはマリオのせいでとにかくアクションだらけであり、その後RPGも増えだす。その両方に乗っかったのが北斗の拳である。

 アクションゲームにはもう一つ問題がある。キョロちゃんランド、うる星やつら、ソルブレイン。これらは別のゲームのキャラが差し替えられたものだが、どれもアクションだという共通点がある。これがアドベンチャーだったらストーリーも大きく影響を受けるのでそんなことできやしないわけで、キャラの差し替えが可能ということは、それだけキャラの存在感が薄いということでもある。やはりアクションのキャラゲーには限界があるのだ。

 総じて、原作にふさわしいゲームジャンル選びこそが、キャラゲーが面白くなるための必須要素だといえるだろう。キャプテン翼と大甲子園、スウィートホームはとりわけ、原作の魅力を最大限に発揮する独自のシステムを開発している。SFCの格ゲーじゃないほうの幽遊白書もそれに加えられるが、これらはそうした独自システムのおかげで、非キャラゲーにも真似できないレベルにまで達している。

 

理由その4:ファミコンブーム期の粗製乱造

 今の視点から見ると、86年ごろのファミコンブームはあまりにも異常だった。その結果どうなるかというと、中身が伴っていなくてもゲームが売れるのである。何せドラゴンボール神龍の謎とゲゲゲの鬼太郎妖怪大魔境が125万本だ(北斗の拳も150万本と言われているが、売上ランキングに見当たらないので間違いかもしれない)。

これはもはや、「頑張らなくても売れる」と思ってもおかしくないだろう。そして山ほどゲームが出ている中では、元から知名度のあるキャラゲーのほうが売れるという寸法である。この後ドラクエが新たな方向性を作らなかったら、本当にアタリショックが起きていたかもしれない。

ここから何となくわかるのは、質の悪いゲームも多様性があってはじめて生まれるものだということである。世の中からクソゲーがなくなった時、それはゲーム業界の終わりを意味しているのかもしれない。

 

まとめ

今回の内容を整理してみると、つまらないキャラゲーができるのは、

  1. ゲーム市場がバブル状態で、
  2. ゲーム会社じゃないメーカーがゲームを作り始め、
  3. 技術力が不足しており、
  4. 特に原作に合ったゲームジャンルを選ばなかった時

ということである。その知名度によるアドバンテージがある限り今後もキャラゲーは作られ続けるだろうが、メーカーにはこうした失敗例と前回挙げた面白いキャラゲーの条件を参考にして、ユーザーが楽しめるゲームを作ってほしいものである。