神話とは何なのか

Gayaline

 神話とは何なのか。これは誰もが知っていることに見えて、意外とややこしく奥深いのですが、その神話の定義や機能について、これまでの研究などを参照しながら考えていきたいと思います。


 先日、特定の神話の要素が強いゲームについてツイッターで尋ねて、その結果をまとめたわけだが、

特定の神話の世界観が濃厚なゲームについて

そのコメントで「クトゥルー神話は神話ではない」と指摘するものがあった。これまでクトゥルーを含めることに何ら疑問を持っていなかったが、よく考えてみると他に挙げた神話や宗教とは違うことは確かなので、この際神話とは何なのかについても、考えをまとめておいた方がいいと思った。そこで神話について知っている限りのことを書いたのが今回の内容である。

神話の定義

 神話とは何かという問いは、答えるのは簡単なように見えて、意外とそうではない。ギリシャ神話や北欧神話が神話の典型例であることは誰もが納得しているが、では旧約聖書も同じように見ていいかとか、近代の創作も含んでよいか、「現代の神話」はあるのかなど、意見が分かれる点は多い。なぜそうなるのかというと、「神話」というのが相当にふわふわした概念で、使っている人は何となく理解はしているが、はっきりと何を意味するのかと聞かれると返答に困るようなものだからである。たとえば「安全神話」のような使い方はあるが、どういうものとして使われているのだろうか?

 このような曖昧な概念は定義付けをすることが何より重要だが、神話の定義は1つではない。有名なものをいくつか挙げてみよう。

神々の物語

 神話とは「神々の物語」であるという定義がこれである。神の話で神話なんだからそうに決まっているじゃないかと思うかもしれないが、英語のmythというのは元来「言葉」とか「物語」という意味であって、神といった要素は含まれていない。そして、この定義で完璧かというとそうでもない。まず「神々」をどう解釈するのかが問題で、仏は入るのかとか、ギリシャ神話の英雄物語や古事記の天皇の由来は神話じゃないのか、それらが語られている部分は神話じゃないとしてカットしてよいのかという問題が出てくる。

 ここで対象を広げて「超自然的な存在が登場する物語」としても、話をややこしくするばかりである。こうすると、何か特殊な能力をもっている漫画の主人公のような現代の創作も含まれてしまうことになる。漫画や小説にも超自然的な人物や存在は登場するが、これも神話なのだろうか?神話とフィクションとの違いは何だろうか?

真実だと信じられている物語

 この問題を解決するのが「真実だと信じられている物語」という定義である。これは宗教学者のエリアーデなどが唱えているもので、裏を返せばフィクションだと認識されているものは神話ではないということになる。これにより小説との区別ができるし、もう一つの難題である民話・昔話との差異化もできる。桃太郎や白雪姫と神話の違いは何なのか。これも小説の場合と同様、創造神話など神話の物語はそのことがかつてあったことだと信じられているが、昔話は聞き手がある種のフィクションとして受け取っているという点から区別できる。神話にも桃太郎のような人物は登場するが、それが「英雄」とみなされるのはその事績が実際に存在し、何らかの発明をもたらしたなどわれわれの生活に関わっていると信じられているからである。

 この定義はかなりいい線行っているように見えるが、まだまだ異議を唱えることはできる。たとえば歴史との区別はどうするか。ローマ神話や日本神話は神的存在による建国から歴史時代までが語られているが、この定義だと実在の推古天皇も神話上の存在ということになる。それどころか、あらゆる歴史が「真実だと信じられている物語」ではないか、といえる。そこで「事実ではないにもかかわらず真実だと信じられている物語」と文言を追加することで修正を図ることはできるが、そうなるとまたもや範囲が広くなりすぎ、「ネギを首に巻くと風邪が治る」といったあらゆる信念・信仰が対象になってしまう。

 同時に、「事実ではない」というのは誰の視点なのかという疑問もある。定義上それを信じている人にとってはその物語は事実なのであり、そうなると神話は信じている当人にとっては神話ではなく、第三者がそれは事実ではないとみなしてはじめて神話が成立するといえる。つまり「私たちにはこういう神話があります」という言い方はありえなくなってしまうが、そのような神話概念は正しいのだろうか?

 

世界や事物の起源を扱った物語

 このように抽象的な表現による定義はどうしても対象が広がりすぎてしまうので、いっそ範囲を最初から限定してしまう人もいる。たとえば民話研究の分野では、神話を大まかに民話の一種とみなし、その中でも世界の起源や創造に関する物語を神話として扱う。この場合はギリシャ神話でも聖書でも、ごく最初の話のみが神話となる。

 昼と夜の起源や、死の起源の物語は神話と言ってしっくりくるし、エリアーデも神話は何よりも世界や事物の起源を語るものだとしていたので、こちらの定義とも親和性があるといえる。だがやはり、すっきりはするがこの定義では神話の範囲をあまりにも限定しすぎではある。


 いろいろ意見の対立はあるにせよ、神話というのは以上の定義、すなわち

  • 神々や超自然的存在が登場する
  • 真実だと信じられている
  • 事実ではない
  • 世界や事物の起源を語る

という特徴を組み合わせることによって、大まかに定義できるし、実際の用法とも合う。世界の神話に加えて、安全神話といったものも「事実ではないにもかかわらず真実だと信じられている物語」という意味では神話なのである。

 ここまで話を整理しても、神話とは何かについての議論が終わったわけではない。むしろ始まるのはここからである。というのも、何が神話かということについては合意が得られているとしても、神話にはどんな特徴があるかとか、本質的要素はあるかという問いについては、数多の理論が存在しているからだ。

神話とはどんなものか

 神話とはどんなものか、なぜ作られるのかという議論は、主に神話の機能や役割を問題にしているといえる。それは逆に言えば、こうした機能を果たしているものは神話だということで、定義の一端をなすものでもある。以下では代表的な神話の機能についての理論を、簡潔に紹介してみよう。

世界を説明する

 タイラーやフレイザーは、神話とは起源の物語を提示して世界の成り立ちや、仕組みを説明するという役割を有するものと考えた。たとえばハデスのペルセポネー誘拐の物語であれば、ペルセポネーがザクロを3つ食べてしまったので、1年のうち3ヶ月は冥界で暮らすことになり、その時期にはこのことを悲しんだデメーテルが地上の実りを起こらなくしてしまう。これが冬の起源であり理由であると説明される。このような見方では、神話は原始的な科学や哲学の一種だということになる。

儀礼の基礎付け

 世界の説明と関係して、宗教によって行われている儀式の由来などの説明を行うのが神話だという意見もある。この場合は、たとえば新年祭や収穫祭のような儀礼をなぜ行うのか、何のために行うのかを納得させるものが神話だといえる。逆に、儀礼は神話に語られることを再演するものだという見方もある。お祭りなどでも、何らかの印象的な出来事を再現しているものが数多く存在している。儀礼が先か神話が先かについては長い間議論が行われているが、この問題には決着はついていない。

特有の思考様式の反映

 レヴィ=ブリュルやレヴィ=ストロース、カッシーラーは神話には独特の思考様式が反映されていると考えた。レヴィ=ブリュルはそれを合理的な思考とは異なる「前論理」的なものだとし、レヴィ=ストロースは二元論的構造を内包したもの、カッシーラーはシンボル的思考だとした。

社会・政治状況の反映

 神話が当時の何かを反映しているという論はこれだけではなく、社会構造や支配者のイデオロギー、文化的理念を神話が反映しているという説は多数存在する。これもある意味では世界を説明するということであって、最初の王がやって来て階級制を敷いたということを語ることによって、なぜ階級制が存在するのか、なぜ従わなくてはならないのかを説明し、正当化しているなどがその例である。

 またエウヘメリズムという見方では神話は実際の歴史を元にしており、それを歪めた形で伝えているとみなしている。実在の王の伝説がいつの間にか神のことにされたというわけである。さらにフロイトやユングなどの心理学者は、神話は個人の無意識や集合的無意識を反映していると理解し、神話の中に重要なモチーフを見出している。


 ここまでに紹介した神話の理論は多種多様だが、多くの意見が一致するのは、神話は世界の中の要素(世界の成り立ちや儀礼、社会構造など)の起源を説明し、その存在を人々に納得させる役割をもっているということである。こうした役割のために、神話は何か重要なメッセージを伝えていると受け取られることがしばしばある。

 神話とはどんなものかについての代表的な理論を挙げたが、これ以外にも多数の見解が存在するので、神話をより深く理解したい人は、神話理論を参照することによって多くのものが得られるだろう。

クトゥルーは神話か?

 最後に、ここまで見てきた見解を踏まえて、クトゥルー神話をどう扱ったらよいのかについて考えてみよう。

 まずクトゥルー神話とは何かについては、差し当たり「多数の作家によって構築され、共有された、さまざまな神々や怪物、土地や書物を含んだ世界設定」というものにしておこう。Wikipediaを見たら、「パルプ・マガジンの小説を元にした架空の神話」と書いてあったが、この書き方がおかしいのはこれまでの話を読んでいればわかるだろう(架空じゃない神話というのは何なのだろうか)。

 さて、このようなクトゥルーに対して先ほどの定義を当てはめてみると、「神々や超自然的存在が登場する」というのはOKである。一方で、「真実だと信じられている」については小説だと認識されている以上当てはまらない。おそらく引っかかっている人はこの点を問題視していると思われる。確かに聖書も読む人にとっては小説のようなものだが、信じている人がいる点では異なる。

 だがここで少々見方を変えたいのだが、「真実だと信じられている」というのは、そこに書かれている出来事が実際に起こったと考えている、という厳密な意味だけでとらえてしまっていいだろうか。クトゥルーの世界を元にしてストーリーを作りたいと思った人は、その世界が一定のリアリティを有している、あるいはあったらいいなと思いながら物語を作っているのではないだろうか。

 もう一つの要素である世界の起源についても、半分くらい当てはまるといえる。必ずしも地球すべての起源が語られているわけではないが、裏の歴史というか、水面下にある世界の成り立ちについて書かれているのは確かだからだ。

 というわけで判定としては、クトゥルーは他の伝統的な神話とは違うが、70%くらいは神話の定義に当てはまると言いたい。


 また、今回は神話・宗教と言ったためにこうした問題が出てきたが、ゲームとの関係を考える上ではクトゥルーを含めるのは何の問題もない。というのも、ゲームの妖精物語的世界観の基礎を築いたトールキン作品が、クトゥルーと同じ程度にはフィクションだからだ。トールキン作品を含める以上、クトゥルーを含めない理由はない。つまり前述のリストで列挙されていたのは厳密な神話というよりは、物語の体系のようなものだったということである(この点ではそれを神話と表現したのは不正確だった)。

 そこで考えるべきは、クトゥルーと同じくらい強固な世界観を構築していてファンも多いスターウォーズやハリーポッターなどがどうして(直接のゲーム化を除いて)ゲームに入ってこないのかということである。単に著作権上の問題、つまり「シェアード・ワールド」でないからという理由かもしれないが、模倣した世界を作るという手段はある。この点でも、クトゥルーには何か特別な要素があるのではないだろうか。

 いずれにせよ、ゲームにモチーフとして取り入れられるものは、神話には限られないということだ。「世界の神話とゲームの関係 総解説」でいくつか説明しているように、ファラオの呪いのような都市伝説の一種が取り入れられることもあるし、五行思想のような哲学的思考が使われることもある。どういうものならばゲームの素材になりうるかは一考を要するが、差し当たりは「面白い発想なら何でも受け入れる」理解でいいのかもしれない。

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