「リアル」の二つの意味
〜創作を評価する上で大切なこと〜



何かを評価する際に、それが「リアル」であるかどうかということはよく言われる。
リアルな演出、リアリティのある描写、リアルな爆発・・・といった感じである。
だが、ここにはぼんやりとは理解できているものの、うまく言葉にされていない複雑な意味合いがある。
それを明らかにするために、「リアル」ということに関して少し考えてみた。

「リアル」ってどういうこと?

 皆さんは、「リアル」という言葉の意味を理解しておられるだろうか。
 えっ、そんなの当たり前?リアルっていうのは何かが本物に似ていることだって?
 もちろんそういう意味もあるのだが、それだけではないのである。想像してみてほしい。例えばジュラシックパークのような恐竜の映画があったとして、そこに出てくる恐竜がよくできてるか、そうでないかは感覚的にわかるだろう。それでもって観た人は言うわけである。「恐竜の動きがリアルだった」と。
 しかし、このリアルは先ほどの話とは合わない。なぜなら、誰も本物の恐竜を見たことがないわけであって、「本物の恐竜の動きに似ているかどうか」を正しく判断できる人はいないのだ。
 つまりここには、何か別の意味の「リアル」の判断基準があることに気付くだろう。
(それでも、恐竜はなじみの爬虫類に似ているかで判断してるんだと言い張る人は、完全に想像上の生き物、ドラゴンやフェアリー、果てはガジェラガジェリのリアルさをどうやって評価しているかを考えてほしい)。

リアルのもう一つの意味:存在感があること

 では、「現実のものに似ている」とは違うリアルの規準とはなんであろうか。それは、「理想上の何かに似ている」かどうかという規準である。そう、あくまでもイメージの中のモデルと比較して、それに合うかどうか判断しているのだ。
 先ほどの例で言うなら、イメージ上の恐竜、イメージ上のドラゴンと近いから、それがリアルなのである。こっちの意味のリアルは実在のものを対象にしている場合と違ってそれぞれの頭の中にあるので、リアルさを把握することはとても難しい。でもだからこそ、うまくできたものには価値がある。
 そして、比べるものが現実のものだろうと、想像上のものだろうと、共通して当てはまる「リアルさ」の特色を挙げることができる。それは言ってみれば存在感であって、「それが確実にそこに存在しているという感覚」と説明することができるだろう。そして大事なのはこの要素なのだ。
 どんなに人間離れした能力を持つキャラであろうと、誰も見たことのない化け物だろうと、それがうまく描かれていれば、ウソっぽいなどとは思わずに、そこに存在感を感じ取ることができる。もちろんこれは見ているものが創作だとわかっている場合にである。こんな人が存在したらすごいだろうなという理想、こんな化け物がいたら恐ろしいだろうなという理想に一致するから、それが生き生きとしていると感じられるのだ。

イメージ上のものがリアルなわけ

 ではなぜこうした意味のリアルの感覚が存在するのか?大きな話になってしまうが、それはおそらく人のものを見る見方に由来している。
 人はものを見る時に、カメラのようにすべてを写し取って記憶しているわけではない。むしろ印象に残るところ、見たいところだけを見ている。誰か、または何かを思い出すときに、その特徴を言うのが一番簡単なのはそういうことだ。
 だからそれの絵を見るときには、写真と見比べてでもいない限りはそのイメージ上の印象を基準にしているのである。デフォルメされて、全体としては元とは似ても似つかないキャラがそれとわかるのもデフォルメが元の特徴だけを残して形を変えているためだろう。
 結局のところ、「実物と似ているかどうか」もこのイメージ上の像を参考にするしかないわけであって、すべてのリアルはこの「イメージと一致しているかどうか」という形で判断されているともいえる。

この見方が大事な理由

 さて、こうした見方をすることによって何が得られるかといえば、それは創作物を「現実をどこまで模倣しているか」という物差しだけで評価する、あまりにも単純すぎる視点から脱却できることにある。
 今言っているのは、ゲームの場合では「どんどん技術が進歩していって、どんどんリアルなものができてくる」という見方のことである。考えてみれば、他のものはこの図式には最初から従っていない。絵がどんどん写真に近づいていって、本物に近い絵のアニメや漫画しか受け入れられなくなるかと言われればそうは思わないだろう。
 ゲームの場合でもそうである。どんどん画像が細かくなっていって、最終的には実写のキャラばかりがでてくるようにはなっていない。3Dよりも2Dのほうが生き生きとしている場合もある。技術の進歩は配られるカードが増えるだけであって、そのカードをどのように使うかは作る人次第なんである。
 もっと言えば、効果音の場合にこれは顕著である。録音技術が発展し、「本物そっくり」の銃の音とか、剣を振る音が出せるようになったが、そうした効果音が賞賛されているのを聞いたことがない。むしろ、FF4のバイオのようなやりすぎなくらい派手な音の方が印象に残っているはずである。
 これもよく考えてみれば当たり前のことだ。なぜなら銃や剣の場合はともかく、魔法の炎や氷の音を聴いたことある人がいるわけもない。つまりこれもイメージに従って判断しているのである。だからどんなに正確な燃える音を録音しようが、聴いたことがない人にとってはそれが本物か判断しようもなく、むしろ想像上の炎の音に合っているかどうかで炎っぽいかどうかは決まるということだ。

「ありえない」ことの魅力

 もう一つ大事なことがある。むしろ現実に合わない場合の方が良く感じられる場合があるということだ。
 映画を考えてみよう。ごくふつうの日常に、周りに絶対にいないようなイケメンや美女が写っていたところで、違和感を持つだろうか?逆にそこら辺の人がしゃべっているのをただ撮っただけで、「現実にそっくりな映画」と評価されるだろうか?
 もちろん実際のものかどうかが大事な場合もある。専門知識を持っている人にとっては、出てくる特定の職業の人(医者とか裁判官とか)やメカが実際のものと離れていないかどうかはとても気になるものだ。だがそういう作品も専門家しか楽しめないわけではない。
 もし現実の模倣がすべての規準なら、ファンタジーのたぐいはみんな否定されることになるが、決してそんなことにはならない。なぜなら見る人はフィクションだとわかって見ているからである。創作の場合は、現実に合っているかという判断はある程度ストップしていると考えることができるだろう。
 逆に、実際のものから離れることによって魅力が生まれる場合がある。すごいアクションとか、どんなにやられても立ち上がるとか、そういったことだ。こうしたありえなさは要するに「夢」であって、創作の第一の目的はこれを表現することにあると言ってもいい。さもなければわざわざ作る必要がないんである。現実はもう身の回りにあるのだから。

まとめ:似ているだけがすべてじゃない

 長くなってしまったが、まとめとして次のことを言ってみたい。
 創作の場合は、それが「実際の」キャラクターであるか、ドラゴンであるか、魔法であるかは、ほとんど関係がない。
 むしろ見ている人は、そのキャラクターっぽい、ドラゴンっぽい、魔法っぽいという点を評価しているのである。

 この「っぽい」というのは小さな違いのようだが、そこには参考にしているものが現実かイメージかという大きな差がある。
 そしてこの「っぽい」をうまく表現しているものを「存在感がある=リアル」と受け取っていることを理解すべきである。
 もしかしたら他の人との評価の食い違いも、このイメージ上のリアルの違いにあるかもしれない。
 実際の何かに似ているということは一つの規準であるが、それは一つの規準でしかない。
 そう考えれば、今まで理解できなかったいろいろなものの良さを感じ取れるはずだ。



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