家庭用ゲーム研究序論


今や、コンピューターゲームというこの分野が確固たる歴史を持っていることを否定する人はいないだろう。
映画の論文が雑誌に載り、ビートルズが音楽学に取り上げられられる昨今、これを研究する価値はないと誰が言うだろう?
そう、ゲームこそこれより先大いに研究されるべき分野だと筆者は信じる。
この文はその第一歩をしるすためのものである。後続の者たちよ、これに従って次々と電子の大海へ船出を迎えるのだ。

1.研究対象の規定

・家庭用ゲームとは
家庭用ゲーム学では、一般消費者にハードという形でゲーム機が販売され、それに各種ソフトを組み合わせて使用する、いわゆるコンシューマ機の個々のソフトを取り扱うことに規定する。これらのソフトはどの家庭で再生しても同様の内容を表示することができ、比較的長期間の保持が可能なため、映画のフィルム、クラシック音楽の楽譜のように遺産として語り継ぐことが可能なはずである。
再生機械(ハード)との連携のため、かなり少量の情報でひと作品を構成でき、もしデータを抽出すれば容易に保管、複製が可能だが、それは当然著作権に振れる上に、芸術作品に対する姿勢という点でも問題がある。評論家が映画のフイルムを入手してコマごとに分析するのは正統とはいえないし、その必要もない。
よって真の作品として存在する物は過去に作られたソフトのみになるので、それらの保管も学者の務めとなるだろう。もちろん、ただ独占して研究に役立てないのは愚かなことである。

・ハードの選択
研究するハードの選択はすなわち研究する時代の選択を意味する。一つのハードで永遠にソフトが発売されつづけるものはないからだ。
音楽にもルネサンス、バロックからまさに現在まで、映画にもサイレント時代やヌーベルバーグなど様々な区分があり、研究者それぞれが様々な選択をする。
同様にゲームにおいても研究ハードの選択は自由である。最も好きなものをやればいい。どの時代が優れているかなどは、芸術として捉えられる場合は愚かな質問である。
人はどうしても自分が最も深く関わったものが良く見えがちだが、偏見を持たずに幅広く接するのが研究者に望まれる姿勢である。

・ジャンルの取捨選択
各々のソフトを大雑把なジャンルに分類するとして、我々がひとまず取りかかるべき物はRPG(この単語のこの用法は日本のみで通用するようなので注意が必要だが)であろう。その理由は、何にせよ文字量が多いこと。ゲームソフトを一つの書かれた作品として捉える場合、シューティングとRPGとではまず情報量が雲泥の差である。RPGが優れたものとなるにはその世界設定が優れていなければならない。一方シューティングは遊び方の面では研究の余地は大いにあるが、人文科学的な研究に最も適しているのは、やはりRPGであろう。
ところで、このRPGというジャンル区分は最近ではいささか古いものとなりつつある。3Dのゲームにもはやその辺りの境界はなくなってきている。そもそも海外ではRPGという言葉が日本のようなゲームを指すことはない(主にアドベンチャーと呼ばれているようだ)。ジャンルというのも恣意的な分類であることに気をつけねばならない。

2.過去の家庭用ゲーム研究の歩み

・攻略のプロの時代
むろんこれまでにもゲームを分析した例がないはずはない。原初の研究者といえるのが、ゲーム雑誌および攻略本の編纂者である。彼らが実際どのくらいのデータ提供を受け、どのくらい自力で調べていたかは明白にはわからないが、攻略手段を速やかに発見し纏め上げる作業を行っていたことは間違いない。
今や彼らの重要性は著しく低下し、もはや一般人の手に入れる事のできない開発者側の情報や、インタビューを提供する役割しか果たしていない。
「攻略のプロ集団」は崩壊してしまったのである。

・大衆による攻略の時代
攻略の手を、専門家から一般庶民へと移したきっかけは、インターネットの普及であった。この世界でゲームの攻略情報は何よりも頻繁に交換され、偉大な成果がそこかしこに形成された。かく言う筆者も、この山にハーケンの一本を打ちこむくらいの貢献はしたと思う。
ここでは誰もが研究者である。後述する外的分析に関わらない限りは家から出る必要もない、ただ我ら暇人の時間を消費し、ゲームは研究されていった。しかし、インターネットの匿名性と万人が研究に付与することが可能なため、有名な研究者というものを排出するには至らなかった(むろん個人で偉業を成し遂げたマスターは存在するが、その名が知れ渡ることはあまりない)。
今こそ再び各人が信念を持ってこれに取り組み、成果を掴み取る時である。達せられた業績は、永遠に後世に残ることだろう。

3.ゲーム研究の方法論


では最も重要な、いかにして研究すべきかという論題に入る。
研究方法は、大まかに分けると二つ、内的方法と、外的方法がある。
これは詳しく言うとそのソフトのみを詳しく掘り下げていくか、それとも外部の事物に目を向け関連を見出すかということだ。前者はどうしてもデータ採集がメインになり、それを踏まえた上で各種研究を行うのが後者である。

内的方法

内部に関しては、研究のためにはゲーム機とソフト以外のものは必要ない。そのアプローチ方法の分類は、ゲームが表象しうる文字、映像、音楽の三角形に、それを演じる手段を加えた四つが基本となるだろう。前者三点は、既にそれを専門として研究する手段が確立されているので、そちらに倣うことができる。
その一方、遊び方については比較するものがないので・・・「攻略法探求」として新たに定義づける必要があるだろう。まずはそれの手法について提示しよう。

・攻略法探求の方法
これは真っ先に行われるであろう基本中の基本であり、音楽における演奏に該当する。曲をいかに間違えずに弾けるか、それはアクションゲームなどでいかにダメージを受けずに突破できるかという挑戦に似ている。個性的な演奏があるように、制限つきプレイがあるわけだ。
これは全く意味のないことではないが、この例を考えればわかる通り、研究とは多少毛色の違うものとなる。
つまり文章に残しづらいという点で学術的ではないのだ。だがスコアやリプレイ、画面写真などで高い技術を表明できるし、「やりこみ」という形で研究し、その手法を示すことも一応可能である。
やはり演奏家と研究者は違うということを考慮しなくてはならない。

・文字についての研究
言語学の発展は、文化と言語をお互い不可欠な存在、片方が変化すればもう片方も変わるという、に結びつけている。
それは使われている言葉を調査すれば文化の実態に近づけるということだ。
その単位を狭めて考えれば、一つの作品内での言語も、研究に値することになる。
ゲームの分野においてまずなされるべき言語学的研究は、事典を作成することだ。
言語における国語辞典、文化における百科事典があるように、ゲーム作品についての用語事典は、その作品が描く世界を把握するための最良の手段となるだろう。
その際、ひと作品ごとに一つの事典とするべきである。同じ「魔法」でも、FF5のものとFF6のものではずいぶん扱い方が違うのだ。収録するのは「ゴルベーザ」などのゲーム内だけの専門用語だけではなく、さきの「魔法」のように出てくる言葉は何でも、広辞苑的に解説を加えることができると、世界観の把握に非常に役に立つものとなるだろう。
内容はできるだけ客観的な描写に努めた上で、項目ごとに議論が行えるといいだろう。常に内容を校訂し、最新の情報を載せるのが事典というものである。ルドラの秘宝について纏められた「RUDICT」は比較的優れた事典の一例である。

もう一つ文学的作業として、セリフ集の構築が挙げられる。
これも既に自然発生的にネット上に存在しているが、作品に含まれている文字をすべて調べ上げることによって、より他の研究も容易になることは間違いない。
これは自ずと、著作権というものに触れることになるだろうし、大きな衝突は起こっていないが、いずれこの分野が拡大するにつれてネックとなるだろう。
しかしRPGにおける文章は小説としてのゲームの側面のすべてなので是非自由に使用できる日が来て欲しいものだ。楽譜、小説などのように公式に許可を得て販売できればベストなのだろうが。
これも絶え間ない校訂作業は欠かせない。原典に近づけるには地道な努力が必要だ。

・映像についての研究
ゲームにおける映像はある点で絵画的、別の点では映像的であり、表現の方法も写実的なものからシンボル的なものまで様々である。
一つ見られる傾向として過去のゲームは容量の制限がとても大きく、使える色もモデルもそう増やせないので必然的に単純化、繰り返しによるミニマル化がなされる。
「色違い」による区別というのはゲーム世界を代表する表現方法だと言っていいだろう。
現在、映像をそのままの形でフィギュア化したような製品、例えば初代マリオのものなどが販売されて理解が広まりつつあるが、ドット絵というものはもはや絵画の一種に数えるべきものである。
そこでは画材に当たるものが再生するハードとなる。ハードにより使える色数、中間色の出しやすさなどの差があるのだ。それを理解するにはアーケード作品の各機種への移植の様子を見るのが手早いだろう。
この描画技術は一つのドットからスタートし、それぞれが研鑽を重ね発展していき、3Dモデリングの登場とともに爆発的な成長は止まった。現在でもすべてが3D化したわけではないが、技術を競い合う場はほとんどなくなっているので衰退していくことが予想され、伝統芸のように保存が叫ばれる対象となっている。
発展の過程ではヨッシーアイランドや星のカービィ3のように手書き感を表現したものや、スーパードンキーコングのように不完全な3Dを使用したクロスオーバーの試みも少なからずある。
ドット絵はあらゆる美術形式の中で最も情報量(つまりバイト数、コンピューターが描くための絵だから当たり前なのだが)が少ないことを特徴としている。
それは複製が簡単で、原始的だが、いまや芸術とは複雑、完全なものだけが評価されるわけではないことは前世紀の様々な運動を見れば明らかだろう。この分野も、まだまだ評価されうる価値を秘めているはずだ。

・音楽についての研究
ゲームにおける音楽の位置は映画に似て、技術の発展に伴い移行する傾向にある。
大きな「古い」ゲーム音楽と「新しい」ゲーム音楽の差と言えるものは、ボイスによる語りの有無である。
映画が字幕による表現から音声のみの表現にほぼ完全に移ったのに対し、ゲームのボイス化は依然不完全だし、すべてを文字なしで表すのには無理がある。
しかしボイスが入ることによってBGMの扱いが多少変化したことは確かである。
さらに言うなら、映像表現についてもそれが稚拙な古い時代のゲームの方が、音楽の持つ役割は大きいように思われる。初期のFFやドラクエで音楽が世界観を構築するのにどんなに役に立ったことか!
これらのことから考えるに音楽的分析では、より果たしている役割が大きい初期のものに着手すると成果があがると予想される。
方法としては、まずソフトに収録されている曲をリストアップし、曲名の公式発表があるものはそれを使用、その他のゲームやサントラ未収録曲には便宜上の名称をつけ、それらがどの場面で使用されているかを調べ上げる。
この使用局面の分析によってその曲のゲームにもたらす効果が導き出せる。これは安直な作業に思えるが、思わぬ場面での曲の登場もあることを見落としてはならない。例えばロマンシングサ・ガ3の「出航」は最初に船に乗る場面以外でもあと一ヶ所、使用されている。どこだかわかるだろうか?
この作業はゲームと音楽の結びつきの分析であり、音楽自体の芸術作品としての評価作業はこれの他にいくらでも行うことができる。
ただし独自な点もある。すぎやまこういち氏も述べていたことだがゲーム内の音楽は繰り返し聴くことを前提としており、終わりまでいくとループするのが基本である。このことは頭に入れておくべきことだ。
そして、曲自体は個別に存在するが、それは一つの世界を構成する歯車であり、他の曲と関わり合い交響曲的な構成を成している。
その関連は、同一ソフト内と、シリーズ作品内との二つが考えられる。 前者の例は、中世の世界なら一貫してクラシック風音楽を使う、などで、後者は最初のファイナルファンタジーの橋を渡った時のプロローグの曲のように、のちの作品まで同じテーマを登場させる、ということだ。
このテーマの継承は作品の関連づけの際にきわめて重要で、今やFFやドラクエで初期から現在まで受け継がれているものは、もはやタイトルと音楽だといえるくらいだ(ドラクエに関しては鳥山明イラストも挙がるが、厳密に言うと彼が描いていない作品もある)。
そのためシリーズを通して使用されている曲、モチーフなどを捉えて調べ上げる作業の重要性は高いだろう。

そして音楽を述べる際に忘れてはならないのが、効果音の評価である。 効果音に関しては間違いなく・・・過去の作品の方が影響力が大きかった、と思われる。高速ナブラや生気翔撃法の音は忘れたくても忘れられないが、最近の効果音はあまりにリアルすぎて印象に残らず、個性という点では劣る。
これらの音は文字による表現が難しく(さきの後者の例だと、キィーンパラリラパラリラゴォーとでも表したところで伝わるだろうか?)、録音も容易でないため論じるのが難しいが、見逃すことはできない要素である。

二つの芸術の分野は内的方法によるデータ収集はそんなに重要ではなく、外部の知識と手段を持ちこんで専門的な研究をするのがメインとなるため近づきがたいが、価値を指摘し、良き評価者を募るのも我々の役目である。

ここまでが内的方法である。しかしソフトの中のみに対する研究には限界があり、攻略学以外は単なるデータ収集の域を出ることができない。
ただ画面にかじりついて遊んでいるだけだと言われないためにも、他の分野と関係を持たせてより学術的な研究をする、外的方法は不可欠である。それについてもいずれ詳しく言及する予定である。

もどる
ムーンウォークで  あんないするラリラリ!!