リメイクとはいったい?
〜それは何で、なぜ評価されないのか〜


 今やゲーム業界の常套手段となっている「リメイク」。しかし、リメイク作品というものは、そこに原理的な欠点を備えているゆえに、すでに原作をプレイ済みの人は満足できない場合も多い。いや、場合が多いどころではない。ことごとく満足しないのだ。リメイクで前作より良くなっていると感じたものなど一つも挙げられないかもしれない。では、それはなぜだろうか?
 今回は、どうしてリメイク作品は喜ばれないのかという疑問を、リメイクの性質、そして「インプリンティング」「完成品」という概念を用いて説明してみたい。文中でも述べるが、これはリメイクに留まらず、あらゆるシリーズ物の続編にも通用する捉え方である。

リメイクの性質=「目的」と「本質」

 リメイクとは何か。二つの要素を挙げてそれに答えよう。第一に、リメイクには「目的」がある。目的とは、リメイクの動機とも言えるもので、基本的に新しいハードや新技術であり、それら新しいプラットフォームへ古い作品の内容を持ち込むのが大抵のリメイクの過程である。そのためリメイクされるのはハードが異なり、技術としても古い作品がほとんどだが、例外的なFF4イージータイプの場合はリメイクの目的が「初心者用に難しい部分を削る」ということであるという理由から納得ができるだろう。このようなリメイクの目的に当たる要素(主にグラフィックや音楽)は大きく変更がされやすい箇所といえる。
 一方で、リメイクでは当然変化しない部分も存在する。それが元となる作品の「本質」であり、この「本質」を残して、それ以外の部分を追加したり、減らしたりすることがリメイクという作業の概略である。ではその「本質」とは何だろうか。それは基本的に人それぞれであり、その認識の違いがリメイクの際の不満の一つの原因である。つまり製作者が残してよいものを取捨選択する際に、プレイヤーの側としては必要だと思っていることまで除いてしまったり、逆に余計な細部にこだわってほとんどそのままの作品になったりしてしまうのである。例えばラスボスがチェーンソーで倒せるというのは本質だろうか?どうやらサ・ガのリメイクスタッフはそうだと考えたらしい。一方で、FF3やサ・ガ2を見る限り、それぞれの個性があり、より根本的なことに思われる戦闘画面は本質ではないようである。おそらく戦闘画面はリメイクの目的(3D技術を使ってみるという)の方に所属するために、それは優先して変更されるべきなのだろう。このように「本質」の規定は完全に恣意的なものであって、製作者はそれを推測するしかないのであるが、近年はネット上でプレイヤーの意見が十分に聞けるようになったため、反発を恐れて細かな本質を残しすぎているきらいがある。
 さらに、あるソフトの続編の製作の際にもこの本質の意識は重要である。続編が同じシリーズであると言えるのは、タイトル以外にも何らかの共通する点があるからで、それが製作者にとっての本質なのだ。ドラクエの製作は8からレベルファイブが行っているわけであるが、彼らはどこかのインタビューで「メッセージの表示の際の間を忠実に再現した」というようなことを言っていた。こうした点も、「ドラクエらしさ」を表現するのに一役買っているかもしれない。このように保守的なドラクエに比べて、FFシリーズは音楽を除いてほとんど本質といったものはないと言える。システムはほぼ毎回異なり、ストーリーではクリスタルすら途中から無関係である。この革新の精神つまりシリーズの本質にこだわらない意識こそがFFの成功の一因であるように思われる。
 このように、その「本質」がどのようなものであるかを意識することはリメイクでも続編でも重要なことである。まとめると、リメイクの過程ではまず「目的」つまり変更されるべき箇所が計画される。その後残すべき「本質」が決められる。これの二つがリメイクの重要な要素である。だがこの要素のせいで、リメイクはどこまで行っても反発を招きかねないものになる。その原因について、次節で二つの理由を挙げて考察してみよう。

リメイクが不評に終わる二つの原因

1.インプリンティング
 動物行動学者のコンラート・ローレンツはその著書『ソロモンの指環』の中で、孵ったばかりのハイイロガンのヒナが彼を親だと思い込み、始終あとをついてまわる様子を報告している。本の中ではその用語は用いられていないが、動物の子供が初めて見たものを親と思うこと、これが「刷り込み現象」とも呼ばれるインプリンティングである。
 さて、ゲームの評価をする際にも、このインプリンティングが大きな影響を及ぼす。といってもその理由は生来の本能とかではなく、もっと単純なことである。何かを評価するとはすなわち比較することである。ゲーテは「一つしか言語を知らぬ者は、言語を全く知らぬ者だ」と言っているが、同様に一つのゲームのみではゲームとはどのようなものかを判断することはできない。それゆえにこういった評論を書く際にはいかに多くのものに触れたかが重要となるのだが、それはいいとして大事なのは次の点である。ある人が比較をするとき、その人が「最初に見たもの」が基準として強い影響力を持つ。この例は誰もが見たことがあるだろう。誰だって映画とか女優とか音楽とかについて、昔のものはいいものであり、今はそれに比べろくなものが見当たらないと考えたくなるものである。そう言っている人を目にしたこともあるだろう。これがここでインプリンティングと呼ぶ現象なのだ。別の言い方をすれば、最初のものは無批判に入ってくるが、それ以降のものはそうではない、ということである。
 この観点からリメイク作品を考えてみると、原作を体験している人にとってはリメイク元こそが初体験であり、そこからの逸脱などありえないという意識がどうしても生じる。かくいう筆者もメタルマックスリターンズがあらゆる面で優れたリメイクであるにもかかわらず、音楽や効果音に不満を持ったことを記憶している。
 逆に言えば、原作さえ見なければリメイクが抱える問題は一切生じないと言える。FF3のリメイクは画面を見ただけでプレイする気にもならなかったが、初めて触れて喜んでクリアしている人に出会って衝撃を受けたことがある。結局、インプリンティングがリメイクの評価を落としていることになるのだ。だったら、リメイクなどと言わなければいいじゃないかという気にもなってくる。
 このようなインプリンティングによる評価が全て単なる懐古主義であり、不当な評価であるとは言えない。他方には不当な技術の賞賛があり、ある程度の懐古主義も必要なことではある。ともかく、リメイクがことごとくダメに見える一つの理由がこのインプリンティングにあることは間違いないだろう。

2.完成品ということ
 サン=テグジュペリの言葉に、「付け足すものが何もなくなった時ではなく、何も取り去るものがなくなった時に完成したのだと製作者はわかる」というものがある。映画『アマデウス』でもモーツァルトが「余計な音は一つもありません!」というようなことを言っていたが、サン=テグジュペリのこの言葉が正しいとすれば、完成品とはバランスの取れたものであって、そこでは余計なものを削る作業は十分に行われているということが言える。実際、良い作品とはそういうものである。
 そうだとすると、リメイクの際に何かを「付け加える」ことは、大いにそのバランスを崩すこととなる。良い例がFF4のアドバンス版である。原作に対して、クリア後の隠しダンジョンが追加されており、そこではいろいろなアイテムが手に入るわけであるが、ラストダンジョンでボスを倒して手に入るいわくつきの武器をあっさり上回るものが店で買えたり、死ぬほど落とす確率が低いものを根性で集めていたきんのリンゴが簡単に手に入ったりと、追加要素のせいで以前のバランスが崩壊し、結果として以前のアイテムの持っていた輝きが失われることとなっている。こういった安易な付け加えは行う分には楽であろうが、およそリメイクとしては最悪の行為である。一つ付け加えたならば全体を手直ししなければならない。それが完成品に対する必要な態度である。
 その他に、「世界観を壊す」というものも追加要素で多く存在する。前述のFF4のルナ系のよくわからない幻獣達がそうであるし、他のFFリメイクでも唐突な他作品からのクロスオーバーは多用されており、それぞれ独立していた世界がでたらめに繋ぎあわされてしまっている。さらにアイテムの名前一つを取ってみてもそういった事態は起こる。FF1はTRPG色の強い無個性な装備が特徴であるが、アルテマウェポンが追加されるだけでもはやその独自性はどこへやら、である。
 このようなバランス感覚を欠いた追加要素についてはもはや弁解の余地はない。それぞれが作られた時代に由来するのだと言うことはできるが、少なくとも旧来の良さを認識できていないことは明らかである。しかし忘れないでおきたいのは、この点においても文句が言われるのはそれがリメイクゆえだからである。初めて見る人にとっては、リメイク作品の世界観というのもそれが壊れたものではなく、最初からあるものとして素直に受け入れることができるだろう。リメイク作品はリメイクでさえなければそれなりの評価を受けてしかるべきものなのである。何せ人気作のリメイクなのだから。

 以上二つの要素と、「本質」の捉え方の違いによってリメイク作品は評価されないのである。もちろん、リメイク元の作品をプレイしていない人にとってそれは「リメイク」ではないので、この問題は発生しない。これだったら単なる再販、あるいは移植の方がましであると思いたくもなるが、それはそれで何の進歩もない、まさに懐古主義の極みである。ファンは喜ぶかもしれないが、ゲーム業界全体にとっては有意義なこととは言えないだろう。
 同時に、ファンが新しいハードでのリメイクを望んでいることは良くあるが、結果としてできたリメイクはここで述べた理由によって満足ができないかもしれない。それでも多少の欠点には目をつぶるか、あるいはいっそのことリメイクに期待するのをやめるか、どちらかを選ぶ必要がどうしても出てきてしまうはずである。リメイクとは困ったものなのだ。


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